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中編小説

赤水郷

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一、異邦人と紅い妓女 3

 殺気が満ちたそこに茫然と立ち尽くしていたのは、天女よりも美しい美貌の女だった。
蒼白の顔に嵌った深緑の瞳は壊れて動かない七香車に注がれている。
白壁に衝突したのは見て取れるが、何やら岩石が降ってきたような奇妙な損傷が車の屋根にある。胸元の見える紅い半臂(はんぴ)を着て、黒髪の上には蓮を模った花冠を頭上にのせた美女は、青頴を認めるなり追い払うような仕草をして何か叫んだ。
「早く逃げて!」と、おそらくそう叫んだのだろうが、内容を認識する前に背後に殺気を察知し、咄嗟に身を捻った。足元に小刀が刺さり、袖が裂ける。
「何者だ?!」
睨みつけた相手はゆらりと体を揺らし、白目で呆けた面(つら)を向けている。盲人かと疑ったが、そのわりに頭には幞頭(ぼくとう)を戴き、黒い円領衣(えんりょうい)を身につけている姿はまるで軍人である。
いつからそこに立っていたのか気配が全くなく、何より、小刀を投げた位置は正確で、並大抵のものではない。
「あれは丹拷鬼(たんごうき)と呼ばれる化け物だわ」
「化け物、だと?」
「この辺りでは古い迷信があるの。この世でもあの世でもない世界『赤水郷(せきすいきょう)』には人の魂が彷徨っている。その魂はいずれ人の皮を被った『丹拷鬼』と呼ばれる鬼となり、『赤水郷』から解放されると人を襲って狩り採った魂を『赤水郷』に運ぶらしいの。そして、『赤水郷』の現われた場所には人が皆いなくなる」
「女、気は確かか?」
「見ればあなたも納得するはずよ」
奇妙なことを言う女だと青頴は思った。が、その鬼だという白目の男が覚束ない足取りで助走もせずに高く跳躍し、疾風の如き蹴りを腹部に入れてきたときには、女の言うとおりだと得心せずにはいられなくなった。
「確かにこれは・・・・人間ではないな」
瞬時に後に下がって肋骨が折れるのを免れたが、まるで隼のような身のこなしだ。鍛錬などで身に付けられるものではない。七香車の岩石落下の痕跡は、女のいう丹拷鬼の蹴りに相違あるまい。どちらにしても、人外の破壊力である。
青頴は自然と口端に嘲笑の笑みが零れた。
―――まさか俺以外の化け物と異国の地で退治することになろうとは。
注意深く相手の動向を窺ってみるが、頭を振り回す異常な挙動は狂人にしか見えない。だが、その動きはどんな軍人でも到達できない身体能力を備えている。
そして、その力を発揮し、素早く地を駆けて青頴に飛び込んで来ようとしていた。
―――女の悲鳴が小路に響き亘る。
地面に血の雨が降り注いだ。脇腹に小刀がねじ込まれ、そこから血飛沫が噴出す。眼前の丹拷鬼の顔が青頴の血で赤黒く染まっていった。
青頴は小刀を引き抜こうとする化け物の手を掴んだまま、相手の顔面に拳を打ち込んだ。緩んだ皮膚の感触に舌打ちする。頬の皮膚が破けて黄色い汁が拳に付着した。卵白のように粘りつき、饐えた臭いまでする。人の皮を被った鬼という話にいよいよ真実味が出てきたというものだ。
青頴は殴った顔面にさらに足蹴りを加え、丹拷鬼の体を吹っ飛ばした。小刀を脇腹に刺したまま、向かってくる丹拷鬼の足を払う。 相手は体勢を崩し、青頴は続けざまに顎を蹴り上げ、空中で一転する。傷口が開き、よろめいたが、その間に腰に佩いた太刀を鞘から引き抜く。
腰が抜けて座りこんでいる女に一瞥をする。顔を強張らせているが、気丈な性質らしく、目が合うと頷き返してきた。 青頴の目が異様な光を帯びて鈍く明滅する。

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