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中編小説

赤水郷

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一、異邦人と紅い妓女 7

「何をするんだ!」
「・・・お客になりたいなら言ってくれたらいいのよ。特別料金でお相手するわ」
紅い唇を満足気に緩めた顔は艶容で、青頴の心中は穏やかではない。
「勘弁してくれ!・・・困る」
「ごめんなさい。でも、重傷だったはずの傷口がどうして完治したのか気になるわ。この力がもし私にあったなら、助けたい人を助けられたかもしれないもの」
蠱惑的な表情を一瞬にして消しさり、白蘭の顔に影を落とした。西日が透かし窓を通して差込み、絶世の美貌に黒い花模様が浮かび上がる。その幻想的な様に思わず吐息を漏らしつつ、青頴はすっと立ち上がって白磁の花瓶から椿を取り出した。
それを紅凛の目の前に持ってくると手を添える。
「見てみろ」
青頴が紅凛の注意を椿の蕾に向けさせると、固く閉じた蕾がふわりと花弁を震わせて紅い花を咲かせた。
紅凛は目を見張り「素敵ね」と呟くが、青頴は否と首を振り、枝を握りなおす。すると、真紅の花が色褪せ、花は次第に縮みながら茶色に変色して床に落ちた。
塵のように粉々に零れた花の残骸に、青頴は目を伏せる。
「俺には生物を活性化させる力があるらしい。傷を治すのもこれと同じ原理だ。しかし、加減を間違えるとこの花のように崩れ去る。自分の体なら感覚で何とかなるが、他人の体では上手くやる自信はない」
「その力があって良いことなんてなかったという顔ね、ほんとに〈酷い顔〉」
「この力で人が喜んだことなど一度もない。この力があるだけで迷惑ばかりかけ、人に危害を加えることが常だ。家臣の子供の傷を治そうとして腕を腐らせた。森を荒地にして生き物が棲めない土地にした。数え上げれば切りがない。皆、俺が邪魔だった」
青頴は胡坐を掻いて体を丸めた。項垂れることはなかったが、黒い双眸から光は消え、沈む夕日を茫然と見つめた。
峯徠の太陽よりも激しい赤い光が部屋を朱に染め、柱の先からは一筋の暗い影が伸びていた。青頴にとってこの時刻は梅雨の某日を想起させる。
――――お前が殺したのだ。
あの日の兄の慟哭はすでに縮み織られていた青頴の希望を破き、未来という糸を引き抜いて欠陥に仕立て上げた。
あの優しい兄の獣の如き声は、紅い残照が差し込む時刻に女を抱き上げながら発せられたものだ。後悔と言えば生易しすぎる、生きることへの罪悪が、あれからずっと心を締め上げ、今も、異国の街を壊したことを含めて己という全てに嫌気がさしていた。
「厭わしくないのか?」
ふと、掠れて力ない声で囁く。赤く染まった青頴を紅凛は静かに見つめた。「何が?」とは訊かずともわかる。
「会ったばかりの人間に訊くことかしら」
青頴は硬く瞳を閉じた。
「怖くない、誰が何と言おうと心がある人間よ。それは貴方自身がよく理解しているはずだわ。だから己を否定する言葉が苦痛なのよ」
自分に言い聞かせるような紅凛のその重い声に、青頴は睫毛を震わして紅凛を刮目する。青頴だけではなく、紅凛も何かを思い出しているらしく、艶めいた瞳の輝きには男を誘惑する潤みは少しもなく、ただ憂えている。
目を上げた紅凛と青頴の目がかち合った。二人は迷夢の中を彷徨う囚人のような目でしばし見つめ合い、竹の御簾が撥ね上がる音に乗じてさっと目を逸らした。
「頼まれていた物とお茶をお待ちしました」
卓子に白茶を置き、青頴の新しい衣服を持って来た女童は好奇心の混じった目を青頴に向けながら、さっさと部屋から出て行った。
部屋に居た堪れない空気が流れる。
紅凛は逸早く立ち上がると、女童に買ってくるように予め頼んでいた青頴の換えの着物を広い背に掛けてやった。
「この着物は今日のお礼として受け取って。それと、ここに泊まっていったら良いわ。かあさんにはよく私から言っておくから」
「すまない。しかし、良いのか?金にならない客を泊めたりして」
「これでも廓一の妓女とまで言われる売れっ子だから多少の我が儘は許されるの。それに『戯千房』のかあさんは私の本当のかあさんみたいに可愛がってくれているのよ。だから、妓女というより居候として私を扱ってくれていて、妓女としての義務でさえ強要された事が一度もないの。とても恵まれた立場だわ」
「・・・それなのに、苦界に身を置くのか?」
「えぇ」
天女が尻込みする麗しさと、闘神が思わず腰を浮かせる勇壮な微笑みで紅凛は頷いた。まるで超大な青天を仰いだような清々しさに感じ入り、青頴は紅凛の真の気持ちを知ることもなく、ただ感嘆した。

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