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中編小説

赤水郷

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  「名は何と言うんだ?」
ひとしきり笑った青頴は改まった様子で丁寧に問いかけた。問われた小男は合掌礼をしたまま静かに名を名乗る。
「興光(きょうこう)にございます」
名を聞いた青頴は小男を視界の端で掠め、森の一点に注視した。顔を上げた小男は首を傾げて青頴の視線を辿るが、枝を絡めるように木が林立しているのみでそれ以外は何もない。
「興光は連れときているのか?」
「いいや、一人だが?」
二人は初対面だったが、興光は青頴が武術の使い手だと気付いていた。無心に水面を覗いている時でさえ背中に隙一つなく、筋肉で締まった体は猛禽のそれのように強靭な力を秘めている。気配にも鋭敏のようで、頭上から落ちてきた木の葉を視認する前に手で捕らえた。どうやら何かがいたのは間違いなさそうだと興光は察する。
「狐でも見たのかい?」
「・・・・さぁな」
本人も肩透かしでもくらったかのように溜息をついて立ち上がり、湖とは逆の方向に向かって歩きだした。隣を通り過ぎた青頴は、興光より頭二つ分高い。男は着痩せして見えるのか、堂々たる体躯である。
「アンタ、どこに行くつもりかね?」
「この辺りに行くところといえば漲詠(ちょうえい)の町しかないだろう。・・・・死ぬのを延期したからには寝床を探さねばならない」
「なるほど」
くくっと唇を吊り上げて、悪戯っぽい顔をした小男は後に続いた。
「ついて来る気か?」
自身の後ろに一定の距離を置いて、ひょこひょこと軽い足取りでついてくる小男に向かって振り返る。
袖が広がって風を切る。右足を引いて体を反転させただけだが、その足運びといい、杜青頴の動作には余分なものが何一つない。
「この辺りで行く所といえば漲詠の町しかないと言ったのはアンタだろうに。それに、まだ名前を聞いていない」
「杜青頴だ」
「ははぁ、大した偽名だねぇ」
「なに、興光ほどではない」
詮索されるのが嫌いな男だ。一瞬怒鳴られるかと思った興光だったが、想像に反して青頴は口端を吊り上げて皮肉気な顔で笑っている。お互い異国から来た人間なのは一度見れば知れること。興光は金の髪という外見だけではなく言葉に西の訛りがあり、東訛りの青頴の衣服は董では売っていない東の島特有のものだ。そのくせ、二人とも董国特有の名を名乗ってみせた。青頴ばかりではなく、偽名を名乗った時点で興光も何か理由(わけ)有りなのだろう。
興光は青頴がそのように理解したことに気付いて、終始笑みを形作っていた唇が僅かに垂れ下がり、自虐めいた嘲笑を零す。
「ご覧のとおり儂(わし)は西域出身ではあるが、名はもちろんのこと、その他一切祖国とともに捨ててきた。今は名といえば、董国流のこの名しか思い浮かばんよ」
「それは俺も同じこと。興光は西域、俺は東域。どうやらお互い丁度その間にある董に逃げてきたらしいな」
互いに視線が合うと、まるで自嘲の延長のような奇妙な微笑を双方顔に貼り付けた。董国を中央に、その対極にあるともいえる国からやってきた二人の異邦人は、なにやら通ずるものがあったらしい。二人は同じ歩調で漲詠の町に足を向けていた。

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