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中編小説

赤水郷

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二、異境の迷信 1

鴉が止まったのは木や屋根ではなく、土から伸び出た人の腕だった。根元には女の白い顔。
一本の木のように土から伸びたその腕は関節を無視して折れ曲がり、指も同様にそれぞれ違う方向に歪んでいた。人の腕であるにも関わらず、異様に腕も手指も長い。始めてこの腕を見た者はそれこそ白い変種の木に見える。
しかし、きめ細かい表皮は女の肌であり、先端についた硬いものは明らかに人の爪だった。
それは中庭の反橋を渡った中島にあり、松の木の隣に植わっている。遠目ではあまり気にならない。
だが、半年以上過ぎた頃には、それは生臭い異臭を放つようになっていた。
峯徠南部の磯崎(いそざき)にある遠山家。
寝殿造りの邸の中央に、その女は埋められている・・・・・。
(そうだ、あの腕の主をこのような哀れな姿に変えたのは俺だ・・・・)
慙愧に堪えない青頴の暗い過去は心内に深淵を創り、毎夜悪夢として現れる。夢はいつもこの景色から始まった。
赤黒い血が飛び散る場所に、遠山家に関係のある様々な顔が入れ違いに現れては消えて行く。皆其々青頴を怨みの籠った目で睨みつけ、顔が次第に歪んで人外の化け物に変わり、最期はいつも太い眉の眼光鋭い兄の顔になった後、あの腕が兄の顔を貫いて目が覚める。
八重歯が覗く口からふっと溜息が漏れた。今、背にしているのは青頴の寝息が漏れ聞える部屋だ。
「やりきれないねぇ・・・・・」
と小男―――興光はポツリと呟き、『戯千房』の裏手にある二重屋根の楼閣にある回廊を、裸足でぺたぺた歩いて遠ざかる。
小男が回廊を渡り終えた丁度その時、青頴が目を開けた。人の気配があった気がしたが、気のせいかと首を傾げる。見慣れない異国の梁を眺めて布団に顔を埋めた。
赤い太陽が山間からにじり出て来る景色を指の隙間から覗く。
「紅い・・・」
黄土色の東とは異なる赤い旭光に、ふと紅い名の付く妓女の顔が脳裏に過ぎった。自分を恐がらない変わった女だ。できればもう少し早い時期に会いたかった。
―――しかし、もう遅い。
青頴はあの湖で自殺することを延期したが、命を絶つことは漠然と決めていた。恐慌の末の死ではない。その時期は疾うに過ぎていた。ただ時期を見計らっている。
惰性と絶望、ともすれば希望でもあるその決意は穏やかなもので、青頴は確かな充足を感じていた。青頴を人間だと言い切った女は紅凛が初めてだったので寂寥感が少なからずあるが、今の青頴にとっては幸福の中にある小さな雑念に思えた。
昨晩、絢糸(けんし)と名乗る年嵩の女と女童が酒と肴を運んできたので馳走になると、この部屋に案内されて泊めて貰うことになった。どうやら絢子はこの妓楼の主人だったらしいが、紅凛が慕っているとおり妓楼のやり手婆にしては品の良い、柔和な女であった。
青頴のことを紅凛の恩人だと思っているようで、小さいが清潔な部屋が用意されており、貧血気味の青頴には天の助けとなった。宿を教えて欲しいと言っていた興光の容姿が脳裏に浮かんだが、もう会うことのない人間だと記憶から追い出す。嫌いではなく、むしろ好ましい人柄だったからこそ、もう会わなくてすむと思うと安堵する気持ちが強かった。
―――気に入った相手に罵られるのはもう耐えられそうにない。
青頴は暗い表情でつれづれに物思いに耽っていると、扉の向こうから控えめな足音が聞えてきた。
やることもなかったので、部屋を出ると院子(中庭)に人影を見つける。
・・・紅凛だ。
屈みながら子熊ぐらいの鉢を持ち上げ、花が咲くのをまだかまだかと待っているようだ。
院子には薄い二枚の板を台にして、等間隔で花の鉢が置かれている。大輪の牡丹や蘭は見事に咲き誇り、春風に乗って茎は踊り花は笑っている。その花園は朝末だきに拘わらず華やいでいた。
しかし、紅凛の鉢は無様なほどに所在無く、表面の土を風が掠っていく。
勾蘭に頬杖をついて丸い紅凛の背を黙視した。
青頴にとっては未だ嘗てないほど長閑な朝である。
日溜まりにいた紅凛が、ふと振り返る。青頴は紅凛の愁眉に首を傾げた。
昨夕の気概ある女の姿がぼやけ、思わず眉間に指を添えて目を閉じる。
薄目を開けてみると、いつもの紅凛が化粧をした顔で嫣然と笑んでいた。

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