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中編小説

赤水郷

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二、異境の迷信 3

「おや、やっとお出ましだね」
『戯千房』の一室にちょこんと座り、酒杯を傾けていた興光は青頴の姿を認めると、赤くなった顔を上げて無邪気に手を振ってくる。
「探したよ。昨日宿を教えると言っていたのに、突然妙な車を追いかけてどこかにいってしまっただろう?あの後、あの辺りは色々あってね。心配でこうしてやって来たんだけど、宿を教えなくても一番良い宿に辿りついたみたいだし、何より重畳だねぇ」
上機嫌にそう言われ、青頴も苦笑でもって興光の酒杯に酒を注ぐ。まさかとは思ったが、どうやら昨日会っただけの青頴を、わざわざ探して尋ねて来たらしい。よくよく考えてみると入水を試みようとしていたことや、下手人の気配を追いかけた青頴の行動は危なっかしい。おまけに青頴の消えた小路辺りの建物は原因不明の倒壊では、何事かと驚いて探しに来るのも別段おかしくない。
「それにしても、よく俺の居場所がわかったな。いくら峯徠の着物を着ていたとはいえ、漲永では異人はそれほど珍しいものではないだろうに・・・」
香机に頬杖をついてそう問うと、興光は目じりに皴を寄せてどこか羨ましげに言う。
「アンタは目立つと昨日も言っただろう?何人かに話を訊いたらすぐに答えが返ってきたよ。それに『戯千房』の紅凛と歩いていたんじゃ、一目を惹かないはずがない」
「紅凛はそんなに有名な妓女なのか?」
「まぁね、残念ながら儂は会ったことないが、何でも絶世の美女だっていうじゃないか」
そう言う興光は、妓楼に来たというのに女一人も呼ばず、盆に乗った豆料理を相好を崩してひたすらに頬張っている。
「ところで、あの後何があったんだい?殺気がどうのと言ってどこかに消えた挙句、廓一の美女に腕を引かれてここにいるアンタの話をぜひ聞きたいね」
娯楽の少ない生活に飽きた老人のように、好奇心を満たすためだけに探したのではないかとこの老人を疑ってみる。それほど、今、湯碗を口に運んでいるこの老人は驚くほど明け透けで、自分に正直に見えた。
青頴はそんな興光に呆れつつも、自分の力のことを伏せ、尚且つ建物を倒壊させたのは丹拷鬼ということにして事情を話すことにした。
突拍子のない話なので信じないかもしれないが、こういう話を喜ぶのではないかと思えて少し悪戯心が湧いたのだ。
「・・・・・・・ということがあったのさ。どうだ?アンタの好きな面白い話だっただろ?」
話を聞いていた興光は箸を世話しなく動かし、食べ物を租借しながらも相槌を打っていた。そして、驚くどころか話を聞き終わると同時に、あの八重歯を見せて、前触れもなく「アンタ、洸源池にこれから行く気だろう?」とにやりと笑ってみせた。
青頴はぎょっと目を見開き、興光を凝視する。当の興光は青頴の反応を気にした様子もなく、残った酒をうまそうに呷った。
「どうして洸源池に行くと思った?」
「アンタはすでに紅凛と同じように、その赤水郷とやらに誘われているんじゃないかい?女の安全よりも気になるくらいに」
「・・・・紅凛が聞いた声は聞いていない」
「でも、興味が湧くんだろう?」
青頴は戸惑いながらゆるりと頷く。紅凛を置いてでも赤水郷とやらを見てみたいという欲求が確かにあり、指摘されて始めて異様な心の動きなのかもしれないと考えて愕然とした。
「儂もそうだよ、儂も呼ばれている」
何を言ったのか理解できなかった青頴は目で問い返す。
「儂もアンタと一緒なのさ。赤水郷は心残りや哀しみに支配された人間を、嬉々として誘い込む性質があるらしい。十六年前、家族を捨ててこの国に逃げきた儂は、赤水郷に呼ばれる」
「まさか・・・・」
「あれから随分時間が過ぎたが、過去は消えてくれない。この国に来てそれなりに楽しいこともあったが、未練があるせいでいつも過去をひょいと手繰り寄せては苦しくなる」
そう言っておどけた調子で釣竿を引くような仕草をしてみせる。
やはり、何かの間違いではないかと視線をやるが、笑い含みの興光は首を横に振る。
「アンタも終焉を望むなら、赤水郷と呼ばれるアレをしっかり知ることだ。そうすれば、あの呼び声に捕まることもなく、活路を見出すだろうさ」
膨らんだ腹を摩って立ち上がった興光は、意味深長な言葉を残して「ついて来い」と手招いた。

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