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中編小説

赤水郷

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二、異境の迷信 5

 三鳳楼の頂点が尖った円屋根は天空を突き立つように聳え建ち、回廊は空浮く雲の如き高層にある。間近でみた宮闕(きゅうけつ)はまさに天上の王城だった。天地を繋ぐように建つ城壁に囲まれ、荘厳な門楼は廷の繁栄をそのまま写したように幾層にも装飾が重ねられている。
董の侵攻に際して破壊された楼閣もあるが、それでも一地方都市には不似合いな威容を誇っていた。
 正門を潜り、一度足を踏み込むと、卵型の石が敷き詰められた空間に軒車が乱れなく並んでいる。前方には石段が続き、九竜壁の隙間からは楼閣の入り口が小さく見て取れた。
「洸源池はこっちだよ」
辺りを見渡す青頴に、興光は袖を引いて右に促す。その先の壁には半円形のアーチがあり、現在は赤い異界の入り口が開いているという。
「どうしたね?」
動こうとしない青頴を訝って、興光は問いかける。
青頴は脂汗を額に浮かべ、足を踏み出すことができないでいる。
「興光、なぜ見張りの兵が一人もいない。それに何だ、この奇妙な気配は・・・・」
門楼には兵が配備されていた。それらの兵士は城壁を潜る際に素性を確認して官吏や賓客を中に入れる。もちろん官吏ではない青頴が入れる場所ではないのだが、興光が袖の下から金を渡し、二、三言葉を交わすと道を開けてくれた。そこまでは、手馴れた様子の興光以外、別段おかしいところはなかったのだが、城壁の中に入ると空気が一変した。
守衛の兵や官吏、下仕えの者、果ては虫の声や鳥の羽ばたきさえも聞えない。おまけに人より鋭敏な青頴には興光の促す先から四肢に絡みつく不快な殺気を感じていた。しかし、心は流行り、足を向けるのを拒む体と鬩ぎ合っている。
それは異常としか言い様がなかった。
体中の血液が沸騰したかのように熱い。
興光に指摘されなければ気付くことはなかった赤水郷の呼びかけが、今では青頴の内部で弾け、疾く疾くと気持ちを逸らせる。青頴は前にも後ろにも動くことができずにいる。
「名園だけではなく、今は伝説の赤水郷まで見物できるんだ。そりゃあ、普通に人がいて、ただ美しい庭園があると思ったら大間違いだよ」
「そうかもしれないが、本来いた人々はどうなったというのだ?土地の規模から考えて数百・・・いや、それ以上の人間がいたはずだろう?」
「・・・・残念ながら、この三鳳楼の洸源池に赤水郷が現れて何日か経っているわけだから、ほとんどの人間が無事ではないだろうね。悲しいことだけど、梅以外に魅せられた多くの魂が赤水郷で溺れていることだろうよ」
興光は感情のない声でそう答えると、躊躇することなく石造りのアーチを潜る。青頴がひゅっと短く息を吐き出すと、硬直していた筋肉が緩み、強張って動かなかった足が何事もなく前に出て前進することができた。
 暗い湿気を含んだ中を進み、光が目に飛び込んでくる。広大な池とそれを囲むように咲く梅の木や花々が視界の向こうまで広がっている。
梅の名所に相応しい、全ての春を凝縮した眼福の風光に青頴は苦りきった気持ちが抑えられない。全身から受ける圧迫感は危険だと脳に伝達されているのだが、視覚は至高の楽園を映して混乱を誘う。
「まったくもって素晴らしい庭園だ。ここで艶やかな麗華達が歌舞を披露したというのだから、羨ましいね。さぞや酩酊に身を任せ、冥々に遊べただろうよ」
一方、興光はただ無頓着なのか、解っていて無視しているのか不明だが、心底楽しむように嘗て廷の王族が所有していた庭園に見入っている。池の水面には神仙が住むという伝説の榮山(えいざん)を模したという築山が映り、花弁が雪のように舞い、花付きの小枝が遊泳している。
それをちらりと見た青頴は興光を追い抜き、池に掛かった石橋を渡る。
すると、木々で遮られ、死角となっていた場所が開けて景色が一変した。
 竹林の向こうには水上の楼閣が建っており、花木が極端に減った景色には幽遠の趣があった。
「あれは・・・」
その景観の中、異彩を目端で捉えた青頴は息を呑む。足は止まるどころか急(せ)いて遂には走り出していた。
前方の円弧を描いた架け橋の上には桃色の薄紗の衣を纏った少女の姿がある。少女の向かう前方の池には、血を垂らしたように赤い滲みが斑のように無数に増えて融合し、一面を染めていた。
「楊玉様」
後方から興光の声を聞く。
どうやら天子の愛姫でもあり、亡国廷の血を継承している楊玉がこの子供らしい。
興光がなぜ楊玉の顔を知っているのかという疑問が頭を掠めたが、深く考えている余裕などない。幼いながら優艶な風貌の姫は虚ろな目をして、足を擦らせながら橋を渡っていく。
向かう先は紅凛も見たという赤水郷だろう。青頴はともすれば少女を助けたいのではなく、赤水郷に惹かれているからこそ疾駆しているのではないかという錯覚に陥りそうになり、意識が混濁しいく。
―――死にたいことには変わりがないし、決意してもいる。煩わしい現世を捨て、今からここに落ちれば、きっと心地良いだろう
―――今落ちようとしている姫も、もしかしたら、その方が幸せかもしれない
投げ遣りな気持ちが頭を浸食するが、根底にある女を助けなければという使命感のようなものが赤水郷に翻弄される自分自身に警告を発している。
青頴は何とか誘惑を払いのけ、前方の小柄な体を引き寄せようと腕を伸ばした。
指先が少女の柔らかい腕に触れ、捕らえた・・・はずだった。
「な・・・に?」
体が宙に浮く感覚がしたかと思うと、後ろから追いついたらしい興光を下から仰ぐことになった。
皴がある顎を眺めながら、正気とは思えぬ楊玉の怪力によって池に投げられ、不可思議な赤い水流に呑み込まれて意識を手放した・・・・。

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