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中編小説

赤水郷

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三、異界の夢 1

 ――――この音は・・・・
それが、よく知る遣り水のかすかな音だと気付いたとき、青頴は覚醒した。
水分を充分吸った土に軒から滑り落ちた雨滴が溜まっている。雨が止んだ後の息苦しいほどの湿気が辺りを満たしていた。これは乾燥した董国の空気では有り得ないものだ。
前方に視線をやると峯徠式の庭が、露を含んで日を照り返している。石造の手水鉢に満ちた水は微風にも関わらず側面を滑り落ち、その脇にある躑躅(つつじ)に跳ねて青ばんでいた。
それは青頴にとって懐かしくも忌まわしい見知った景色だ。
空気だけでここが紛れもなく峯徠の磯崎で、長年過ごした遠山家の敷地内だと確信できる。梅雨時の空気・・・。峯徠を出る契機となった某日を思い起こす天候だ。
どうしてこの場所に戻ってきたのか、青頴は混乱した頭ながらも考える。洸源池で楊玉公主を捕まえたのは覚えているのだが、近くには公主はおろか洸源池の影も形もない。
図らずも赤水郷に迷い込んだのかもしれないが、魂が彷徨っているわけでもなく、肉体もちゃんとある。何より、遠山の家にいることが腑に落ちない。おまけに董国同様、峯徠の季節は春のはずだが、明らかに肌で感じている温度や湿気、風の匂いは梅雨時のものである。ということは、数ヶ月過ぎた未来の峯徠にきたのか、それとも過去に戻ったとしか考えられず、青頴は後者であると直感的に悟っていた。
根拠と呼べるものはない。ただ、この咽るような湿気と控えめな風には覚えがある。推測の域を出ないが、どちらにしても有り得ないことが起こっているのは確かであり、それが人の魂を彷徨わせるという赤水郷と何らかの関係があることは明瞭だ。
そして、これから起こることが、青頴の心に大きな衝撃を与えることは自明の理であるような―――そんな予感めいたものが青頴の心を萎縮させている。
 簀子の上で寝そべっていた体躯を気だるげに持ち上げると、激しい息遣いがして、立蔀の角から精悍な体つきの青年が衣を乱しながら現れた。
目の見開いた青頴の顔を、急くように階(きざはし)を上った相手が気難しい顔で覘き込む。
「基信(もとのぶ)ではないか。どうして、こんなところに座りこんでいる?」
「兄上・・・」
青頴は自分の予想が当たったことに絶望し、強張る顔を隠すことができない。
この日、妻泰子(やすこ)の陣痛が始まったと知らせを受けた兄基近(もとちか)は、総門近くから屋敷に上がることなく庭を突っ切って泰子の様子を見に戻ってきた。青頴が覚えている限り、兄が庭を通って屋敷に上がったのはこの日だけであり、身につけている朽葉色の衣からしてもここが過去であり、あの出来事が起こる少し前であることが確定した。
「どうした怖い顔をして。まさか泰子に何かあったのか?」
「―――いえ」
「どうかしたのか?」
「何でもありません。そんなことより兄上は早く産屋へ・・・・。泰子様が大そう不安がられて兄上をお待ちしております」
 実際は陣痛の始まった泰子が呼んだのは、夫の基近ではなく青頴―――基信の名であった。遠山基近に輿入れして日の浅い泰子は、基近以外の誰もが嫌う青頴の力を噂でしか聞いたことがなく、親しく話すほどには仲が良くなっていた。始めは敬愛する兄の奥方と良好な関係を築けたことに喜びもしたが、泰子は誰かに依存する悪癖があり、それが青頴には災いとなった。家を空けることが多い当主の基近はそれに気付かず、青頴も気付いた時には、泰子の心が自分に向けられた後だった。
そして、出産という極限状態の中、泰子は夫ではなく基信の名をしつこく叫び、その声があまりに悲痛で無視できなくなった青頴はしばらく会おうとしなかった泰子のところに顔を出し、手を繋いで欲しいと懇願され、近づいた青頴に縋りついた挙句に「あなたの子が欲しかった」と、周りに人がいるにも拘わらずついにあの女は叫んだのだ。
間近で見た泰子の目は異様なほど追い詰められ、喘ぐ声には苦痛と媚を売るような色香が混ざっていた。
―――大切な人間は兄、基近だけだ。その基近がこの泰子を見たら何と思うか・・・
その考えが過ぎると、青頴は身震いしていた。それを想像すると息も絶えそうなほど苦しかった。居た堪れなくなった青頴は自分に思慕する泰子の手を振り払い、離れた対屋で身を潜ませて兄の帰りをじっと待つことになった。
今はどういうわけか簀子の上に座って兄の帰りを迎え入れることになったが、過去では対屋で息を潜めていた青頴を兄が見つけ、
―――そして青頴が遠山家を離れる契機となったアレを引き起こすことになったのだ・・・・。

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