文字の大きさを変える
  • 大
  • 中
  • 小

中編小説

赤水郷

前のページへ  次のページへ

三、異界の夢 2

「やはり様子が変だぞ。母上にまた何か言われたのか?」
場所は変更されているが、基近が話す内容は一字一句あの時と変わらない。当時の青頴は情動に突き動かされた泰子によって血の気が失せていたが、今の青頴はこれから起こることへの恐怖から顔色が悪い。
「今日は母上に一度もお会いしていません。兄上は泰子様のことだけ心配していれば良いのです」
青頴と基近は異母兄弟であり、青頴の母親は早くに他界している。父親であり、遠山家当主だった靖彦(やすひこ)が亡くなった後、基近の実母である富子は青頴への嫌悪を隠すことができなくなり、ひどく当たるようになっていた。基近はそれをいつも憂えており、今も妻が大変なときに青頴の心配をしている。
青頴は気を抜けば、涙が溢れそうになった。
「ありがとう、基信。我が妻の心配をしてくれて、私は嬉しい」
「・・・泰子様が必死に兄上の子を誕生させようとしているのです。心配するのは当然だと思いますが」
「そうか、ならば共に泰子の所へ行かないか。泰子もお前のことを気に入っているし、顔を出せば喜ぶだろう」
あの兄の言葉に青頴は一瞬で凍りついた。基近と泰子の所に行けば、アレが起こってしまう。
「なりません。泰子様は兄上と会いたいだけで、俺を邪魔に思うはずです」
「泰子はそんなに心の狭い女ではない。周りに産婆がいて、裏には祈祷師達が控えている。そんな状態で、一人で行こうと二人で行こうと変わらんだろう」
「しかし!」
「どうした?やはり様子がおかしいぞ。まぁいい、とりあえず泰子の様子を見ながら話をじっくり聞こう」
そう言って強く青頴の腕を掴む基近に、過去の青頴は再び泰子の所に行く破目になった。しかし、今回は絶対に行ってはならないことを知っている。
必死だった。
何とか兄との絆を壊したくないと、こんな奇妙な状況にも関わらず、僅かな希望に縋りついている。
「申し訳ないのですが、どうも朝から調子が悪いのです。ご勘弁を・・・」
「それならば、ついでに祈祷師達にお前の快癒を願わせよう」
「しかし、穢れを産屋に齎します!!」
「そんなことは気にしなくて良い。泰子も大事だが、お前も大切な家族だ」
―――有り得ない。
強引に腕を取って青頴を立ち上がらせた基近は、まるで青頴が逃げないように腕を掴んだまま産屋へ向かう。青頴はそんな兄を信じられない気持ちで眺め、ちらりと向けてきた兄の目を見て、眉を顰めた。兄の黒い目は何か問いかけるように揺れていたからだ・・・。

 

沈む太陽に従うように茜雲が薄闇色に染まっていき、産屋に近づけば泰子の切羽詰まった悲鳴がすでに漏れ聞えていた。安産とはいかず、難渋しているようで、基近の太い眉は苦悶に歪み、産屋へ向かう足は早くなる。
基近と腕を引かれた青頴は赤一色で装飾された部屋へ踏み入り、基近は普段では有り得ない乱暴な仕草で御簾を退けた。
そこには天上に吊るした紐で両手を括られ膝をついている泰子の姿があった。額には玉の汗が浮び、暗紅色の着物の隙間からは豊満な胸が覗いている。腹から出血しているのか、たくし上げられ露になった腿からは血が一筋垂れている。それにも関わらず、泰子の姿には妙な艶かしさがあり、それを見た基近の瞳には愛欲の炎が灯った。
一方、青頴は喉に競りあがってくる吐き気を抑えられず、口を塞いで座り込む。
「あ・・・・っ」
叫びすぎて掠れた声で喘ぐ泰子の目は青頴の顔を映している。基近はそれを遮るように青頴と泰子の間に体を入れ、青頴を背に隠すように座った。
「泰子!」
兄が妻の名を何度も呼んでいる。その声音から懇願の感情が読み取れ、青頴は咄嗟に顔を伏せた。
「兄上・・・」
何時になく強引に青頴を連れてきた兄、そして、泰子の視線の先にいるのが青頴だと逸早く察した兄。
基近は以前から泰子の心変わりに気付いていたらしい。だから、妻と関係を持っているのではないかという疑いを含んだ視線を、頑なに泰子に会おうとしない青頴に向けていたのだ。
今になって―――過去の再現ともいえるこの状況で、漸く青頴は兄の真意の断片に触れることになった。

前のページへ  次のページへ

赤水郷トップへ

ページの先頭へ

Copyright (C) 2011 KAZUKI All Rights Reserved.
inserted by FC2 system