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中編小説

赤水郷

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三、異界の夢 3

「・・・・さま。基信様」
兄の腕の中にいる泰子は、激しく胸を上下させながらも青頴の名を呼ぶ。産婆は基信が妊婦を興奮させていることに不満気に一瞥したが、何も言わず、出血した血を拭う。
嘗ての青頴は、泰子が兄の目の前で自分の名を呼んだことに動揺し、この後ずっと放心状態で腰を上げることさえできなかった。
しかし、これから泰子の体に起こることを考えると、静観することもできず、にじり寄って背を摩ってやった。
基近には非難されるかもしれないと覚悟していたが、基近は意外にもどこかほっとしたように目を眇めただけで、一言もない。
 侍女が紙燭を持って現れ、灯台に火を灯すと、室内の赤装束の女達の姿は赤く浮び上がった。その頃にはすでに泰子の喘ぎ声は徐徐に力が失せていき、白い額に浮き上がった血管も消え、幽鬼のような顔色になっていた。
産婆は泰子に何とか頑張るように励ましの声を掛けるが、泰子は首を横に振る。まだ若い侍女が基近に近づき何か耳打ちすると、それを聞いた基近は驚き、顔色を変え、泰子の手を握りながら産婆に怒りの目を向けた。そして、「どういうことだ?なぜ泰子が?」と、狼狽しながら呟いている。
手を尽くしても胎児が出てこないために、母子共々命が危険であると告げたのだろう。
青頴はこの後泰子が口にすることを思い出して、目を瞑って息を吸い込んだ。汗の臭いと熱気が体内に流れ込んでくる。祈祷師達の呪言が、重い雨のように体に滲み込んで伸(の)し掛かる。
「基信様・・・助けて」
昔の青頴は、泰子のこの言葉に憎悪を覚えた。多少の傷なら治すこともできるが、出産に関しては無力である。泰子が青頴の力を意識して言った言葉なのかは定かではないが、その言葉を受けて基近が光明を見出したことは間違いない。
立ち上がり、絶望の目で青頴を見下ろす兄の顔が、目玉を刳り貫いた鬼神に見えた。
「基信、なんとか・・・何とかならないか?」
顔に影を落とした兄の白目が濁り、ぎゅるぎゅる忙しなく動く。
「兄上、それは無理というものです」
青頴は唇を震わせながら首を横に振った。
今は泰子を怨む気持ちは一切なく、哀れみと恐れが波のように入れ替わっては押し寄せてくる。
「何もせず、諦めろと言うつもりか」
「いいえ。しかし、私にできることは何もないのです」
「なぜだ!何か、何かできるだろう?!」
怒気を膨らました基近は青頴の予想通り掴みかかってきて、その手を泰子の腹に押し付けようとした。青頴は体を捻って避けると、兄の足を払って逆に押さえつけた。
後にも先にも、兄に手をあげたのはこれが初めてである。しかし、そうしなければ、泰子だけではなく基近や富子、屋敷の人間達が不幸になってしまうことを青頴は知っている。
くわっと鋭い兄の眼光に射抜かれながらも、青頴は不思議なほど冷静だった。
侍女が小さく悲鳴を上げ、泰子の途切れがちな息遣いがやけに響く。これまで以上に重たげな空気が部屋を満たした。泰子はもうしゃべることができないほど疲弊しており、虚ろな目で青頴たちを傍観しているようだった。
 ・・・・その内、泰子の死期が迫っていることを悟った侍女達がすすり泣き始めた。青頴の思わぬ反抗にあった基近も誘われるように、声を押し殺して嗚咽を噛み殺す。
「おねがい・・・基信様」
泰子は白いなだらかな曲線を描く頬に一筋の涙を落とし、青頴に向かって手を差し伸べた。青頴は過去のように、もう迷いはしなかった。 そっと、近づいて手を握ってやる。
泰子は見たことがないほど、安堵した顔で笑む。灯に淡く照らされた泰子の頬は淡く上気し、爽やかで甘い笑みが青頴の心を強烈に炙った。
 しばらくして後、涙を含んだ目をうっすら開き、泰子は嬉しそうに青頴を見上げたまま、お腹の子共々この世を去った―――――――。
「迷惑をかけたな。すまない」
どんより沈みゆく夕日が稜線をなぞるように光り、部屋に差し込んでくる。沈鬱な情景の中、過去に兄が憤怒で目を血走らせながら「お前が殺したのだ」と言う場面であるはずが、自嘲する響きを秘めたこの言葉に摩り替わっていた・・・・。

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