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中編小説

赤水郷

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三、異界の夢 5

「信じられん。この腕の感触が夢・・・・!?」
青頴は白い木のように伸びた泰子の腕に触れた。僅かに白濁した汁のようなものが手に付着して、糸が引く。
その肌触りは確かに、過去の記憶にあるそれだった。
「今アンタが感じている感触は、アンタの兄上の記憶によって再現されたものでしかない。この場所も記憶の通りに再現されているだけさ」
空を見上げると、蒼穹を目指して雀が飛び立った。人気のない山間に一人置いていかれたような寂しさが青頴の胸を過ぎり、兄を思うと苦しくて仕方がない。
「俺はまだ死んでいないと、さっき言ったな?」
「普通なら赤水郷の誘惑に負けなかった人間の魂を、丹拷鬼が回収にくる。でも我々は、丹拷鬼に魂を抜かれて連れてこられたわけではなく、肉体があるまま飛び込んだから生きているのさ。でも、長い間ここにいたら、どちらにしても餓死するだろうね。早くここを脱出しないと、肉体は朽ち、彷徨える魂となって夢を見続けることになる」
「―――要するに、ここは魂のあの世みたいなものなのだな」
そう言うと、興光ははたっと手を打って感心したように頷いた。
「そう、それだ。哀れな魂を求める赤水郷の内部は、まさに回収された魂のあの世なのさ。亡くなった人間の魂が、赤水郷で夢を見ながら彷徨い続けている・・・死者の夢を見せるあの世といえばいいかねぇ・・・。逆に言えば、死んでさえいなければ、完全に取り込まれることはない場所だが、普通の人間では脱出するのは奇跡に等しい。だが、儂なら大丈夫だ」
泰子の腕に向かって黙祷した興光は、楊玉を抱きかかえて反り橋を渡り、青頴に手招きをする。「ついて来い」と言いたいらしいが、青頴はそれに気付かずに焦点の合わない目で屋敷を眺め続けていた。
興光は「死者の夢を見せるあの世」と言った。そして、さっきの夢が兄のものであったなら、兄基近も、この遠く離れた異郷に現れた赤水郷に取り込まれたということになる。
それはつまり・・・・
「・・・兄上は亡くなり、赤水郷に取り込まれたのか?」
赤水郷とは死者が夢を見る空間であり、死亡した人間はただ意志もなく過去の夢を見続ける。未来のない人間の追想の場、それが赤水郷。 そう理解して、青頴は体に漲る全ての力が一瞬で蒸発したように抜け、立っていることもできなくなった。
生まれ育った屋敷にはもう人がいない。ずっと心の支えだった兄を真実失くしてしまった。
選択を間違えたことを実感する。
追放され、異郷に来た青頴だったが、あの静かな呪われた屋敷で兄を置いてきたことが、最終的な間違いだったのだ。それを、青頴の力が根本的な理由だと勘違いし、全てに絶望して姿を消すことが最善だと考えた。
愚かだったとしか言い様がない。
そもそも力は青頴にとって邪魔なものではあったが、泰子を化け物に変えてしまったことも、兄を置いてきたことも、ただ自分が弱かったために間違った選択をしただけだ。
冷静に考えればわかることだった、あの状態で兄を一人にすればどうなるか・・・。
「なぜ、なぜ兄上は死なねばならなかった・・・あの誠実な兄がこんな寂しい場所に取り込まれなければならないのか―――」
青頴は空しくなって何度も問い続ける。
「赤水郷はね・・・丹拷鬼によって無理やり連れてこられる場合もあるが、基本的に負の感情が残ったまま死ぬと、自然と辿りつく場所なんだよ」
「負の感情?」
青頴は縋るように闇色の目で興光を見上げる。
さっき見た夢が正しかったのならば、基近が錯乱した理由は泰子の出産時に青頴との仲を勘違いし、加えて妻が亡くなったことである可能性は低くなる。しかし、それならば、なぜ基近は泰子の死にあれほど取り乱したのか・・・。その理由が、興光の言う「負の感情」にあたるのなら、青頴には皆目見当がつかない。
この赤水郷なら、その答えが他でもない、兄自身から聞けるかもしれない。
「兄上・・・」
そう思った青頴は新たな望みに縋るように、興光とは逆の、屋敷の方へ続く中島へとふらりと歩き出していた。興光の責めるような視線が背中に集中するのを青頴は察していたが、歯止めがきかなかった。
「ちょいと、待ちなよ!」
「・・・・・」
「死ぬ気かい?!」
「・・・・・」
興光は呆れたように長嘆する。
「―――――・・・アンタの兄上は、女を買っていたんじゃないのかい?」
まるで、何もかも興光は知っているかのように囁いた。青頴の背を貫き、心の蔵に何か鋭利な異質物が刺さったように、その言葉は青頴の体の自由を一瞬で奪った。
「兄上はアンタを恨むほど妻を愛していたのかい?儂はそうは思えないけどね。何が理由だったのか、本当はアンタが一番よくわかっていると思うのだがね?」

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