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中編小説

赤水郷

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四、彷徨える魂 1

自称夢渡りの興光が出口だと指差した場所は、意外にも車宿だった。中は牛車一つなく、遠目で見てもがらんどうであることがわかる。見知った屋敷には人気がなく、乾燥した風が砂埃を僅かに巻き上げる。青頴はもう足を止めることなく、車宿に足を踏み入れていた。
「きゃっ・・・・」
青頴に抱えられた楊玉が小さな悲鳴を上げ、急いで手で口を押さえる。
地面は消え、瞬く間に星屑が浮かぶ夜空に三人は放り出されていた。振り返っても、遠山家の埃っぽい車宿りどころか、地上も見当たらない。
遠山家から空間を飛び越え、一瞬で他空間に移動したらしい。
空中で、しかも夜空で直立する芸当など、手妻を生業にしている人間でも不可能である。しかし、眼前の興光は夜空に佇立したまま耳に指を突っ込み、耳垢をふぅぅっと星雲に向かって飛ばしている。これでは、赤水郷が非現実世界であることを再認識せざるを得ない。 青頴は体を強張らせた楊玉を抱えて下に降ろそうとするが、楊玉は青頴の腕にぶら下がって一人で立とうとしない。見えない星空の地面が恐いらしいと察した青頴は、胡坐をかいて膝の上に楊玉をのせる。
「いつから正気に戻っていたんだ?」
楊玉は怒られるとでも思ったのか、小さな背をよりいっそう縮めた。
「『人生の選択を間違えたね』と、興光が其方(そち)に言っていたあたりからじゃ」
青頴は怒るどころか、ほぼ二人の会話の始めから聞いていたらしいと分かり、よくぞ長い間寝たふりを続けたものだと感心する。幼いながらも、青頴と興光が何者か探っていたのであろうが、興光は気付いていたようで、尻を摩りながら、目が合うと片目を瞑ってみせた。 楊玉はその興光の顔をまんじりと見つめる。
「其方(そち)・・・・以前、康城で会ったことがないか?」
「公主様とお会いする機会なんて、平民の儂にあるはずないでしょうよ」
「そうかもしれんがの・・・・」
笑って否定する興光がどうも胡散臭い。青頴も楊玉と同じ気持ちで興光を注視していると、「やだねぇ」と大袈裟に照れ笑いらしきものを浮かべてみせる。
「ところで・・・ここはどこなんだ?兄上の夢と比べて随分雰囲気が違うから、誰かの夢の中ではないようだが」
手を伸ばせば万斛(ばんこく)の星に届きそうであるが、光源は遥か遠くにあるようで届かない。
「さすがだねぇ。アンタの言うとおり、ここは赤水郷に取り込まれた人間の夢と夢の境だ。寒空で見る星のように美しい光だろう?あれは亡者の魂だ。こうして見ると、それらは皆、清爽なる光を発しているが、夢を覗くと辛い過去の夢ばかり。思えば悲痛な光だよ」
ふと体の重みが消え、楊玉が長裙を持ち上げ立ち上がった。白い頬に光芒が映り、光彩を受けて衣が光を纏う。乱れた濡れ羽色の髪が首筋にかかり、その相貌は大人びた哀愁があった。星に似た魂を凝視する目に、もう恐怖はない。
「哀れな・・・・」
「公主、今まで何があったか教えてくれるだろうか?」
楊玉は青頴の目をじっと揺れる瞳で見つめると、こくりと頷いた。
「・・・・洸源の宴に出席して数日が経ち、しばらくして奇妙なことが起こった。侍女が突然いなくなったのじゃ。それから、護衛の者が消えるという不可解なことが続いた。その内、官吏の誰かが『赤水郷が現れた』と騒ぎ出した。恐怖して多数の役人達が仮病をつかって休み出したが、今日の朝、突然人の気配が消え、妾も意識がなくなった。残った者は妾(わらわ)と同じように、皆、赤水郷に入りこんでいるかもしれん」
「それまでに、逃げようとは思わなかったのか?」
そう問うと、楊玉は口を引き結んで俯いた。
「青頴殿。おそらく、公主様はアンタと同じなんだよ。いや、ここにいる三人ともが、赤水郷に誘惑されたのさ」
ひょいっとどこへともなく跳ねるように歩き出した興光に、青頴も楊玉の背を押して後を追う。
「赤水郷は負の感情を持つ魂が辿り着く場だと言っただろう?生きている人間で赤水郷に誘惑される者は、皆負の感情を持っていることが共通している」
「・・・・」
一歩前を進む楊玉は十に満たない少女であるが、この奇妙な状況であっても屹然と顔を上げて進んでいる。けれど、興光の言葉に一瞬唇を噛んだのを見逃しはしなかった。
「公主?」
「妾は弱かったのじゃ」
楊玉は魂の光に目を眇め、子供らしからぬ顔つきで呟く
。 興光は楊玉の事情さえも知っているようであるが、何の反応も見せず、ちらりと視線を背後にやっただけであった。
「ほぉ・・・、見てみなよ」
興光に導かれるように、突如前方から現れた灯篭によって弓形の道が浮き上がった。両脇に並ぶ灯篭は白い焔を灯し、闇のしじまに白炎の灯篭が道標の役割をしている。
微笑するように揺れる灯篭の間を擦り抜けると、楊玉の柳眉が緩く下がった。薄紅色の頬も上気して緩む。
「確かに、これは夢に相違ない」
かくも、夢らしい夢は寝ている時でも青頴は見たことがない。まさに、露店の立ち並ぶ夜空の市場を散策している気分である。
一同赤水郷の中であることを忘れて、幻惑の光を眺めていたが、濃厚な殺気が青頴の笑みを消した。

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