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中編小説

赤水郷

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四、彷徨える魂 5

梟が眠たげに鳴き、冷気が体に滲みる夜である。洸源池の入り口近くの熱気は完全に消え失せ、鬱蒼とした竹林の中を青頴達は進む。兵士達が残した松明で、馬が踏み荒らした土の痕跡を見つけた興光が、こっちだと明かりで円を書くように回して場所を知らせる。
「近いな」
湿り気の帯びた土には粗い蹄の窪みが深く刻まれており、目的の人物をここで発見されたらしいことがわかった。
「董軍は楼閣をまず燃やしただろう?あれは隠し通路の存在を当時の董の『影』がすでに暴いていたからじゃないかな。だから、楼閣に火をつけて王族を火で炙り出す大胆な火計を決行できたんだろう。確実に王の首を取る自信があったのさ。そうだとすると、さっき追いかけていった兵士もだいたいの王族の逃げ場所に見当をつけているはずだ」
興光が皴の入った顔を松明で不気味に照らし、すっと前方に光をやった。微かに馬の嘶き声が聞こえてくる。白一色の景色の向こうから、不穏な空気が漂ってくるようだった。
目的の人物と兵士はすぐに確認できた。乱れた衣装こそ哀れであるが、女は気の強そうな双眸で兵士三人を見上げている。その女は麗麗とした飾りは一切身につけていなかったが、滲み出る気品が后妃であると一目でわかる。近くには后を庇って落命した侍女らが無残に転がり、后妃も落馬したようで、足を引きずっていた。
「大人しく捕まって頂けたら手荒な真似はしませんぞ」
兵士の中の指揮官らしき男が、威圧的に話しかけながら后妃を包囲するように兵士達に目で指示を送る。馬からも降りず、上から見下ろす敵兵に対し、誰が大人しく恭順などできようか。ましてや、長年仕えてくれた侍女が慈悲もなく殺されていく様を見ては尚更の事。貴意の高い后は憤然とした様子で、兵士を睨む。
「痴れ者が!女を惨殺する者共に屈服するものか」
楊玉と少し似た声の后妃は激昂する。指揮官は后を睥睨しながら、邪悪な笑みを浮かべた。
「しかし、貴女が助かるには大人しく降伏するしか道がない」
周りの兵士がその言葉に同調するように、笑い声を上げる。下品極まりない声に、陽玉は袖で顔を覆う。
「あぁ、嫌だね。奴ら、高貴な人間を服従させる快楽に酔っちまってるよ。確かに痴れ者だな、こりゃ」
興光は珍しく、鼻に皴を寄せて憤慨する。一方、静かに馬を進めていた青頴は遠目でその様子を確認し、「まずい」と呟いていた。
「妾は降伏せぬ!」
青頴の想像どおり、追い詰められた后は後方に向かって走り出した。
青頴は慌てて馬を駆るが、竹が邪魔をして、なかなかに追いつけない。それは董軍の兵士も同様であった。罵倒しながら、后を追うが中々距離が縮まらない。走る后妃は危なげではあるが残る力を振り絞って走り、そして何かを見つけたらしく、そこで足を止めた。
「あっ」
楊玉が小さく悲鳴を上げる。視線の先には風化した井戸があった。
后妃は一瞬、兵士に一瞥をやった後・・・・・古井戸に、身を投げた。
后妃に迷いはなく、ただ一瞬月を見上げ、それから頭から飛び込んだ。声をかける暇もなく、井戸に吸い込まれる。
「なんてこった・・・・」
興光がやるせなさそうに、吐息をついた。青頴も力が抜け、肩を落とすと、忽然と目の前にいた兵士が闇に紛れるように姿を消した。
「・・・・な、なんじゃ?」
楊玉が目を擦り、身を乗り出す。辺りを見渡しても、月下に照らされた竹林があるばかり。人の気配そのものがない。
「この夢は・・・・后妃の見た夢だったんだねぇ。亡くなった後の記憶がないから、兵士の影が消えたんだ・・・・」
風も止み、鳥の声も聞こえない。現(うつつ)では有り得ないことに風景が静止しているらしい。
「廷王陽遼様の后にはこの時代、蓮妃様しかいない。年齢的に考えても今亡くなったのは妾の祖母にあたる蓮后様だと思うが、この戦で行方不明になったと母上から聞いておった。まさか、城のこんな粗末な古井戸で亡くなっていたとはのう・・・」
気丈な公主も身内の死を見て、さすがに堪えたらしい。青頴は涙も見せずにいる陽玉を哀れに思いながら、古井戸に馬を進めた。
「公主の母上はこの戦で助かったのだな」
「臣下に連れられて別の隠し通路から逃げようとしたところ、董軍に捕まり、母上は当時の天子の子であった父上と後に婚約することになったのじゃ」
「董軍は廷の残党の反乱を防ぐため、幼い廷の公主と次代の天子を結ばせた・・・ということか」
「そのとおりじゃ」
二人の会話を聞いていた興光は「子供にそんなにはっきり言うもんじゃないよ」呆れたように呟いたが、気にした風もない陽玉の様子に肩を竦める。
「ほぉぉぉ、これはこれは」
后妃の死に同情していたはずの興光は、突然にやりと顔を歪めた。楊玉は青頴の脇から顔を出し、興光の表情を見て眉根を寄せる。
「無礼な奴じゃな、何が楽しい?」
「これは失礼。でも、出口が見つかったよ」
興光は弾む足取りで后妃が落ちた井戸に近寄り、覗きこんで松明で中を照らす。
「ここだ」
興光は紛れもなく、今蓮后が飛び込んだ古井戸を示している。
「まさか!飛び降りろとは言わないだろうな」
「じゃあ聞くが、飛び降りずして、どうやって外に出るつもりだい?横から穴でも掘って井戸と繋げるつもりかい?」
興光の反論に青頴は言葉が詰まる。代わりに陽玉が疑問を口にする。
「待て!それよりも、この井戸が出口ということは事実なのか?」
「あぁ、間違いないねぇ。夢の出口を外したことは、ほとんどないから」
まるで、博打感覚で飄々と述べる興光を青頴は睨めつけた。
「ほとんど、か・・・・」
井戸の孔底は、深すぎて見えない。
足が何かにあたってそちらに屈んで確かめると、壊れた釣瓶が土に半分埋まっていた。使われなくなって何年も経っている。后妃がついさっき飛び降りたせいか、陰気な空気が井戸内部から這い上がってくるようである。
「なんだい怖気づいたのかい。なに、アンタならこの井戸に飛び込んでも悪くて足を砕くくらいだろうよ」
青頴は露骨に嫌そうな顔をするが、興光に至っては微塵も気にせず「さぁ早く」と催促する。
不安気な陽玉と目が合った青頴は深呼吸すると、陽玉を抱き抱える。
「本当に飛び降りるつもりか、青頴?」
「そうするしかあるまい。俺が着地するから、公主は心配無用だ」
青頴は生真面目に述べると、息を整える。片足を縁にかけた。
「まっ、待て、青頴」
「口を開くな、舌を噛むぞ」
「こら、待てというに」
今にも飛び降りそうな青頴に、陽玉は制止をかける。青頴は一瞬動きを止めて陽玉を見下ろしたが、ふっと笑んで、迷わず井戸の中に身を投じた。
一瞬、土の臭いが鼻を刺激したが、暗闇を降下するにつれて意識は遠のいていった・・・。

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