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中編小説

赤水郷

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五、迂回活路 4

それから竜巻が消え、空の雲間から光が差し込んできても、青頴は身じろぎすることさえできなかった。目前に広がる景色は梅の名所として有名な洸源池の面影が一切ない。それどころか池の水は消え失せて赤水郷の気配が消えただけではなく、土色の平坦な更地が広がっていた・・・・。
瓦礫が至るところに落ち、折れた木が僅かに散在しているが、竜巻が三鳳楼にあった色々なものをほとんど巻き上げてどこかにやってしまったらしい。広大な土地が隅々まで見渡せるほどに視界が開けている。
 青頴は丹拷鬼を退治できたことよりも、吟慈刀の力によって齎された惨状に血の気が失せ、興光が消えたことに失望した。怪我をしただけでなく、竜巻に取り込まれてしまっては万に一つも興光が生きていることはない。
「気を確かに持て」
髪が乱れて着崩れながらも、楊玉はまっすぐ青頴を励まし、虚ろな目をした女を助け起こす。この状況で始めに立ち直ったのは意外にも一番年少の楊玉だった。
女の頬に一筋の涙が伝う。
楊玉の声に正気に戻った青頴は、落涙する紅凛に驚きながらも、頬を袖で撫でた。
「なぜ興光を刺した?」
竜巻に巻き込まれる前に、興光は紅凛によって腹を刺された。紅凛の目が真っ直ぐ興光を射抜き、得物も興光に向かって正確に吸い寄せられるように貫通したのを青頴は目撃している。それは事故ではなく、明らかに殺意あってのものだ。紅凛は興光を殺すために隠れてこちらの様子を探っていたのは間違いない。途中、青頴を助けてくれたようではあるが、それも興光を殺す隙を探している内に、偶々助けてくれたということなのだろう。
「あの、咲かない牽午子に願かけたのはこれなのか?」
青頴の問いに紅凛は何の反応も見せない。青頴の脳裏に早朝に見た紅凛の姿が過ぎった。一陣の颶風に踊らされた紅凛の髪一束だけが揺れ動く。何の感情も浮ばない表情に、青頴は怒りよりも哀しみが先立ち、無意識に爪を立てて拳を握る。
「なぜ、何も言わない?」
青頴は考える。
興光は紅凛がいることに逸早く気付き、自分を刺した紅凛を結界の中に引き込んだ。
まるで、始めから命を狙われていることを知っていたかのような興光の反応だったといえる。でなければ、あの暴風で背後から近寄る娘に気付くとは思えない。
それに、興光と初めてあの湖で出会ったとき、あそこに紅凛がいたのではないかと今なら思える。あのとき、近くに何かの気配を確かに感じていた。興光は狐ではないかと述べていたが、その頃には紅凛が自分を狙っていることを察していたのかもしれない。
何せやたらと勘の鋭い男だ。すぐに娘に会おうとしなかったのも、それが理由だったのではないだろうか。そうであるならば、刺されることがわかっていて、娘を助けたということになる。
それに不可解なことは紅凛の気持ちだ。あの紅凛が、自身の望みのために父親を殺しておいて、涙しているのはいったいなぜなのか、青頴には皆目わからなかった。
「後悔しているのか?」
「いいえ」
始めて紅凛が言葉を発した。見下ろすと、緑の双眸が炯炯と青頴を見上げている。
「それなら、なぜ泣く?なぜ刺した?自分を故郷に置いていなくなった父親に捨てられたとでも思って憎んだのか?」
矢継ぎ早の問いに、紅凛は青頴から目を逸らさない。
興光は復讐をやり遂げるために娘と離れ、島流しにあって逃げのびた後も会いにいくことをしなかった。そのことを考えると、興光は紅凛を捨てたのだと思われても仕方がない。しかし、娘が妓女になったと知るや、ここに駆けつけたのは父親の情が残っていたからだ。会いに来た父親に刃で答えた紅凛の選択は凶行としか思えなかった。
「憎んでなどいないわ」
「嘘じゃな」
青頴に聞える程度に声を潜めて、間髪いれずに陽玉が呟く。
興光を殺した後とは思えぬほど、紅凛の目にはすでに迷いは消えていた。その表情に怒るどころか、羨望にも似た感情が青頴の中で不思議と芽生える。
紅凛の行いはけして許されるものではない。しかし、それでも自分の行いと向き合える双眸に青頴は内心驚嘆したのだ。
問い詰める気持ちも失せて、青頴は口を閉じる。
「邪魔だったのよ」
そう呟いて紅凛は瞳を伏した。矢庭に立ち上がり、衣を翻して背を向ける。
「お互い別れたままで良かったの。それなのに妓女になった私に会おうとするなんて」
「・・・・・興光は其方を捨てたりしなかったと思うぞ。今度は絶対に」
様子を窺っていた楊玉が声を張り上げ、そのまま去ろうとする紅凛の足を止めた。驚いた青頴が楊玉を横目で見ると、涙を流して紅凛と対峙する少女の姿があった。
「興光は捨てたりせん」
まるで自分に言い聞かせるように、楊玉は繰り返す。しばらく楊玉を凝視していた紅凛は突然ふっと艶美な微笑みを見せる。まさに、紅凛らしい青天を背にしたような確固たる姿で佇立している。
「そうかもしれないわね」
答えた紅凛は目を細めた。
「でも・・・全て終わったことなのよ」
その表情はどこか清々しく、そしてたおやかな母性を感じるもので、青頴だけではなく楊玉までも耳を赤らめた。何を恐れ、何を守りたかったのか青頴にはわからなかったが、肉親を刺して晴れ晴れとした表情をしてみせる紅凛は悪女といっても過言ではない。そうではあるが、それさえも美しく、相手を魅了する姿はまさに廓一の名妓であると言わざるを得ない。彼の女の魅力は女ながらに、自他共に傷つける鋭利な刃物を内に隠し、艶美な鞘を持っているところにある。

――――董国ではこういう場合〈しらぬ振り〉が普通らしいわよ。だから、いくらやりすぎでも言い逃れできなくなるまでなら自分の非を認める言動はしないの――――

「終わったことなの」
もう一度繰り返した紅凛は遠い目をして背を向ける。今度は何と声を掛けても絶対に振り向かない。そう感じさせる背中を美貌の妓女は青頴らに見せ、遠く離れていった。

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