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中編小説

赤水郷

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五、迂回活路 5

 紅凛の姿が見えなくなり、残された青頴と楊玉は何も話すこともなく、ただ肩を寄せてその荒れた大地を眺めていた。町へ出れば何がしかの花の香りがするはずだが、ここでは風が運ぶものといえば土埃だけだ。
青頴は自分や紅凛の犯した罪をぼんやり追想する。しかし、疲れているせいなのか断片的に思い出すだけで、気持ちがついて来ない。
とにかく、体がだるかった。
紅凛が全て終わったことなのだと言ったが、荒廃したこの地を眺めていると青頴にとっても真に迫った言葉のようにも感じ、鉛のように重い指で目頭を押さえた。
「あそこに見えるのは、街の境となる城壁じゃ」
重い静寂を壊したのは楊玉の方だった。明るい声に青頴が面食らうと、楊玉は声をたてて笑う。太陽のような笑顔だ。
楊玉の視線の先には一部剥落しているが原型を留めている城の外周壁が視認できた。
「城壁が残っているということは、街に被害が及んでいないということじゃ。だから、そんな顔をするでない。青頴はこの街を救った英雄じゃ」
「楼閣を潰しといてか?」
「そうじゃ」
雲は消え、いつの間にか青天井が広がっている。日を浴びた楊玉の頬が光った。
「悪いのは赤水郷と丹拷鬼。そんな疑って下さいと言っているような顔をしてはいかん」
まだ小さな楊玉に諭されて、青頴は苦笑する。董では言い逃れられなくなるまで知らぬ振りが常道なのだと紅凛が以前教えてくれた。そのお国柄ともいえる前向きな思考に感じ入りながらも、要するに見逃してやるという楊玉の言葉を受けて罪悪感が胸に残った。
「妾は、あの女の気持ちが解る。妾も同じじゃった」
「あの女」とは紅凛のことだと察した青頴は黙って頷く。その表情から、赤水郷に誘惑されるような暗い何がしかについて告白したいのだと、なぜかすぐに理解することができた。
「この町に来た名目は、梅の名勝である洸源池を見物するためだった。だが、本当は違う。恥ずかしいことだが、妾は父上が怖くて逃げてきたのじゃ。父上には七人の姫がいて、私は後見も取り柄もない一人の娘でしかない。それを自覚してからというもの恐くて仕方がなくなった・・・・。妾は父の情しか縋るものがない、それが無くなればどうなるか・・・」
「公主も嫌われるのが怖かったのだな。いや、帝の娘だ。状況はもっと複雑なんだろう」
「・・・・言い訳はできん。妾は康城から逃げたのじゃ」
青頴は切なげに俯く楊玉の頭を撫でてやる。
目を瞑ると、凛然と自分から苦界に落ちたと述べた女の姿が甦る。蓬莱の遊女と違って、董の妓女は場合によっては町民の男より稼ぎが良くなることもあり、引き取り手がよければ裕福で幸せな生活を送ることができる。
しかし、身分は町民より低く、世間的に後ろ指を指される職種であることは変わりがない。
紅凛は妓楼の女主人に随分恩義があるようだった。妓女である自分に誇りを持っていても、興光に知られたことを知った紅凛は相当葛藤が生まれたのだろう。
自分を確立してきた世界を壊すかもしれない人物が現われたとき、人は様々な選択を要求される。紅凛は強すぎる拒絶を選んだ。そして楊玉も、康城での贅沢な暮らしの中で幼いながらも大事な人が離れてしまう恐怖と戦い、「逃げる」という選択を下した。
「なぜ俺に?」
「誰にも言わないつもりじゃった。つまらない理由だとわかっていたからの・・・・。だが、赤水郷が現われて、周りに誰もいなくなったからこそ話す気持ちになったのやもしれん。そして、偶々そこに青頴がいた」
「この悲惨な状況だから・・・・か」
「こんなにたくさんの人が亡くなって不謹慎じゃが、正直言うと、今の妾は気持ちが軽い。あの女は『全て終わったこと』と言った。妾は後悔で終わりにするつもりはない。今回のことで気持ちにけじめをつけることができたように思うのじゃ。洸源池が消えた以上、妾に逃げ道はなくなった。人は、考える力がある限り問題と向き合わなければならん。逃げ道がなくなったのなら、尚更に」
楊玉の髪が風に巻き上げられて跳ねた。風を受ける楊玉は、泣きそうな顔で透明な微笑を見せている。
楊玉の悩みは平民にすれば、食うものに困るわけではないのだから贅沢なものといえる。
しかし、幼いながらも親元を離れたくなるほどに思い悩んだ心痛は、他人の苦しみと秤にかけられるものでもないと青頴は思う。
秤にかけたところで、自分の弱さからは逃げられない。
そして、楊玉は選択することに前向きな姿勢をみせた。きっと紅凛とは真逆の選択をすることであろう。
「赤水郷はとんでもなかったが、これを契機に公主と紅凛は前進を始めたのだな」
「状況は良くない。しかし、前に進めると信じている」
青頴は池の水が消えた赤水郷跡に視線を落とし、背を向けた。
「どこに行く?」
「まだ、やることが残っていた」
障害物がなくなった今、遠目でも剥き出しの井戸が確認できた。
蓮妃が眠る井戸に移動した青頴は、身を乗り出して内部を覗き見る。ただでも孔底が見えない深い井戸に、孔壁の隙間から蔓草が伸びて蓋をするように絡まって中が見えなくなっている。
「何をするつもりじゃ?」
不安そうな楊玉を尻目に、青頴はその蔓を何本か纏めると、強度を確かめるように引っ張った後、それを持ったまま井戸に飛び込んだ。
中は踝辺りまで雨水が溜まっている。日の光もほとんど入らない暗い場所で、手探りで目的の物を探し出す。衣服が濡れるのもかまわず手を動かすと、しっとりとして固い感触を手繰り寄せて吐息をついた。
―――暗い天井に向かって、それを抱えたまま蔓草を縄代わりに登る。
心配そうに下を見下ろしていた楊玉と目が合う。
青頴は手に抱えていた髑髏を簡単に衣服で拭うと、近くにあった折れた木の先端に手を置いた。
青頴は浅く呼吸を繰り返し、指先に集中する力を少しずつ解放していく。
脈打つ指で幹を撫で、根元に指を移動する。青頴の触れていた木の先端が突然伸び、そこから枝が分かれていく。
紅い紅梅が開き、瞬く間に樹齢五百年は経ようかという梅の木が出来上がっていた。
青頴はその根元に蓮妃の髑髏を置き直し、土を被せる。
「俺にはこれくらいしかできない」
空を紅く染めるほどの梅の木を見上げた楊玉は驚いて目を丸くしたが、すぐに驚きの声を感嘆に変えた。紅い花弁が空に舞い、瞬く間に視界を紅く染めていく。紅い花が揺れる度に花の匂いが増し、辺りの土から草や花がこんもり伸びて緑が賑わいだす。
淡い光が目端で弾けた。花弁を纏うようにして頭上に蓮妃の幽鬼が現われる。そして、衣を揺らして空に舞い上がった。花の竜巻が蓮妃の周りに生じ、薄紅色の頬をした蓮妃が青頴に向かって軽く会釈する。
「お婆様」
楊玉の呼びかけに、蓮妃が紅い花弁を纏ってゆるりと頷く。
厳しい目元が緩み、それだけで「これで良いのだ」と慰められたような気持ちになる。そんな微笑だ。

紅い太陽が梅の大木を突き刺し、淡く光るその木陰から鮮やかな竜巻が出現し、蓮妃をつれて天に昇っていった。

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