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中編小説

赤水郷

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刺さるような日差しが湖面に反射し、水面を覗いた青頴は目を閉じた。
 三鳳楼が崩壊して以来、活況を呈した町は静まりかえり、人が町から消えた。突然消失したとしか思えない三鳳楼の様子に肝を冷やし、或る者は町から離れ、或る者は固く家の戸を閉じて出てこなくなった。
以前から赤水郷のことが噂となり人々の恐怖を煽っていたということもあるが、三鳳楼で勤めていた町の中枢である役人の姿がここ数日で消えてしまったため、この混乱を抑止する者がおらず、治安が一気に悪くなったのが町から人が消えた真の理由だ。
状況を把握することもできぬまま、連絡を受けた軍の一部が町に入るまでそれは続いた。
そして、数日後―――
有力者の屋敷に保護されていた楊玉が今回の件を何と報告したのか定かではないが、駆けつけた軍が徹底的に町の鎮静に心を砕いたために、思いの外早く、町は基の活気ある姿に戻ろうとしているようではあった。

宿で町の様子を見守っていた青頴は、怪しげな護符に群がる群衆を尻目に、興光と始めて出会った湖に足を向けていた。
 あれから数日ずっと青天が続いている。日差しの強さに目を細めた青頴は、胡坐をかいて水際に腰を下ろし、興光のことを考えていた。初めて会ったときの興光のように、水を一掬いして口に含み、軽く咽た。
水を飲んだ時の興光を思い出した青頴は静かに笑む。
風を受けて葉が擦れる音がする。
長閑な音を楽しみながら、何をするでもなくちびちび酒を飲んでいると、湖面が赤く光ったように見えて、青頴は首を傾げた。
紅い太陽が空に浮び、鏡面の端から端まで光が伸びていた。目の錯覚かと思い直した青頴は、波紋が外から中へ集束していく奇妙な光景に今度は身を乗り出す。
「なんだ?」
水面に浮かぶ肌色の楕円をした何かが、こちらに向かってくる。青頴は刀の柄に手をかけると、それが目の前で水を盛大に飛ばして浮上した。
「なっ・・・・・・・・!!」
周囲の緑を鏡面に映した湖面に、興光の顔がちゃぷんと現れる。その青い双眸と目が合うと、にやりとした笑みを返された。
「生きて・・・・いたのか?」
仰け反った青頴が掠れ声で問うと、興光はいつものようににやけ顔で頷いた。
「まぁ、何とかね」
湖から這い出した興光が袖を絞って、それで無造作に顔を拭く。唖然としながら、それを眺めていた青頴は深く息を吸い込んでから、興光を観察する。
紅凛に刺されたはずの腹には傷がない。衣服もほとんど破れていない。少々疲れて足元が覚束ないようではあるが、怪我はかすり傷程度のようである。
信じられない面持ちの青頴に、興光は笑い声を上げる。
「儂が生きているのが、そんなに不思議かい?」
「当たり前だ。腹を刺されて竜巻に巻き込まれた人間が生きているはずがない」
「それが生きているんだよ」
ふふっと興光は茶目っ気に笑う。
「・・・丹拷鬼にでもなって戻ってきたのか?」
「冗談でも笑えないこと言うんじゃないよ。そもそも腹を刺されたわけでも、竜巻に巻き込まれたわけでもないんだから」
首を傾げる青頴の隣に興光は体を投げ出して、気持ち良さそうに目を閉じた。鼻がぴくぴく動き、風の匂いを嗅いでいるようだ。
「狙われていることを知っていたから娘の得物を避けることができた。実際は脇腹を掠った程度で全然大したことない傷さ。アンタからは刺されたように見えただろうし、娘も人を切ったことがないから気付かなかったようだけどね」
「その通りだ」というように青頴が頷くと、興光は「やれやれ」と呟いて溜息を吐く。
「儂は娘を助けたくて、結界の中に娘を引き入れた。そこで失敗して体勢を崩し、体が宙に浮いたかと思うと、もの凄い力で竜巻に吸い寄せられた。あの時はもう死んだなと思ったよ。だけど、昔から運が良い方でね。同じく竜巻に飲み込まれようとしていた赤水郷に先に飲み込まれた。おかげで竜巻に巻き上げられることなく、赤水郷の中を放浪するだけですんだのさ」
「そして、洸源池に赤水郷の寄生する水がなくなったために、町から近いこの湖に出口を作って出てきた・・・と、そういうことか」
「まぁね。元々赤水郷に繋がる入り口がない場所に、無理やり出口を作ったものだから、えらく時間が掛かっちまった。おかげで腹の虫が鳴ってうるさいったらないよ」
愚痴を零す興光の腹からは、確かに雷鳴のような腹の音がしている。苦笑した青頴は水の入った竹筒を興光に投げてやる。受け取った興光は嬉しそうに相好を崩した。
「赤水郷からこちらの好きな所に出口が作れるなら、俺が入ったときもそうしてくれれば良かったのに」
「ふん・・・・もう頼まれたってしたくないね」
興光は口端から水を零しながら飲み干すと、疲れたように重たげに瞼を動かした。
「何がそんなに可笑しいんだい?」
腹を抱えて笑い声を上げる青頴に、興光は呆れながら問うと、青頴は立ち上がって興光の襟首を捕まえる。
「何はともあれ無事だった。ということは、紅凛にまず報告をしなければならないだろう?」
嫌な予感を察して離れようともがく興光を青頴は放さない。いつになく上機嫌な青頴を不審げに興光は見上げ、顔を引きつらせる。
「やだね、酔っているのかい?」
「いいや、まだ酔っていない。なぁ、興光。今度こそ和解だな」
「ちょっ、ちょいと待っておくれよ。まだ、心の準備ができていない!それに、次こそは本当に殺されるかもしれないじゃないか!」
「何を言っている。老い先短い身でそんな大事なことを後回しにしてみろ。それこそ、このまま拗れたまま死んだりしたら、赤水郷に取り込まれて丹拷鬼になるぞ」
「そ、そうかもしれないけど、今は勘弁してくれよ!」
「もっと早く会って話し合っていれば、刺されることもなかったはずだ」
唾を飛ばして抗議していた興光はその言葉に押し黙る。大人しくなった興光を、青頴は腕一本の力で立たせた。
仕方なく立ち上がった興光は、恐る恐る青頴の指を襟から外して距離をとる。
「アンタ、死のうとしていたんだろう?他人の親子に世話を焼いてどうするんだい?」
「当分死ぬつもりはない。興光と同じで俺も今死んだら赤水郷に飲まれる。俺達は赤水郷という存在を知った時点で、もう死という逃げ道がなくなったのさ」
あれから青頴はずっと考えていた。思えば幼い頃から、「死」という選択が頭の片隅からあった青頴だったが、赤水郷で兄や興光の妻の夢を見てからというもの、その選択の無意味さを自覚させられた。
どこか「死」が救いのように感じていたところがあった。だが、それは間違いで、むしろ抜け出せない地獄なのだと気付かされた。「無」という地獄が付き纏い、果てには丹拷鬼という化け物になって人に迷惑をかける。それが救いではないという良識ぐらい青頴にはある。
そして、これから何をするのかと考えたとき、そこには生きるという選択肢しかなかっただけのことだった。
けして健全な思考とはいえないが、それでも生に執着するしか道がない。だが、未だ嘗てないほど、前向きであるという自覚があった。
「確かに・・・・丹拷鬼になんてなりたくないね。言いたいことはわかるよ」
目を背けた興光が同意する。
「じゃあ、紅凛に会う決心はできたのだな」
「いや・・・・、その前に腹ごしらえをしないと、ねぇ?」
目を泳がせる興光に、青頴は襟首をまた掴んで歩き出す。隙を見て逃げることは目に見えていた。興光の小柄な体は容易く青頴の腕力に翻弄され、興光の下半身は地面に擦れるほど引き摺られる。
「気持ち悪いくらい上機嫌だね。いったいどうしちまったんだい?」
興光が疑わしげにそう問うと、青頴が興光を見下ろして目を細める。
「紅凛に会えるんだ。嬉しくないはずがない」
「あぁ、そうかい。何だか複雑だねぇ」
呆れ混じりに興光は苦笑する。森の緑を映した湖面が遠ざかっていく。
青頴に引き摺られる興光は抵抗を止め、「まぁ良いか」と力を抜いた。
湖面が揺れて、追い風が走った。
風を受けた青頴達は漲詠の町に向かって、冥道を前進し始めた。

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