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ペントラルゴ 〜忘却の頌歌〜

第一章   奇妙な日常

一、

 

 ゼルディアス暦三十九年。ペントラルゴの首都コルチェから七十里ほど離れた農村で、大男が店の前で憲兵と言い争いをしている。人の少ない村だけに大男はひどく目立った。これほど立派な体躯の男は珍しい。しかも、たった一つの林檎を勘定せずに逃げようとしたものだから、男を見ていた人は驚きを隠せなかった。誰が呼んだのか、憲兵がすぐに飛んできて男を取り押さえようとすると、男は「やってない」と抵抗し、頑固に言い張って言い争いにまで展開したのが事の発端である。

 

 「言い逃れは出来ないぞ。お前が金を払わずに

逃げようとしたのを周りの人間が見ている」
「だから、逃げようとしたなんて人聞きが悪い。俺はそこに倒れている爺さんに、ちゃんと金を払ったんだ。そしたらすぐ、そこの爺さんが胸を抑えて倒れたんだよ」
指差した先には高齢の老人が足元に倒れて息絶えていた。
「私、こんな人知りません」
店を切り盛りしている若い娘が口を挟む。
「店の娘もこう言っているではないか!」
「だからそれは、この娘さんや周りの人達が、今死んだ爺さんの記憶を消されたから覚えてないんだよ。だから、ちょうどその時金を払った記憶も一緒に抜け落ちてるんだ。きっと近くに記憶を消した想師がいるはずだから探してくれ」
「その想師ならここにいるよ。黙ってここから逃げようとしていた」
一身に注目を集めたのは白法衣姿の青年で、小柄な男の腕を掴んで立っていた。
「国に給料を払って貰っているのだろう?記憶を消したら、さっさと退散するっていうのは職務怠慢すぎやしないかな。君のおかげで彼も捕まりそうになっていることだしねぇ」
青年はそう言って想師を憲兵に突き出すと、首の刺青を無造作に大衆に見せつけた。
「そこにいる私の従者は、ここでお亡くなりになっているご老体にちゃんと代金を渡した。それを私は見ている」
「しかし司教様」
青年の刺青を意識して憲兵は狼狽している。紛れもないルイースフェル教、司教の証がそこにある。こんな田舎にこれほど高位の聖職者はめったに現れない。しかも、二十過ぎの若い司教など聞いたこともない。この国で身分の高い聖職者に逆らうことは、社会的にも自身の信仰心にも逆らうことだった。
「加えて言うならば、仕事熱心な憲兵殿には悪いが、私もそこの私の従者も急ぎ城に帰るように教会から命を受けている。まだ何か言うことがあるなら、後で城へ連絡してくれ」
そう言うなり青年は背中を見せて悠然と立ち去ろうとし、男もその後にぴったり後ろについて歩いた。そして立ち去り際に、「俺のこと疑うのはまぁいいが、早くそのご老体を弔ってやったらどうだ」と、親切に声掛けて姿を消したのだった。残された大衆は、変わった主従のふてぶてしさに、ぽかん口を開けて見送るしかなかったのである。

 

 その主従二人は、田舎道を風を切って歩いていたが、しばらくしてすぐに足を止めた。
「久しぶりにペントラルゴに戻ってくると、なおさら正常政策の不気味さに驚きますね。高位聖職者や官師・想師・聖騎士しか死者を覚えてないことの恐ろしさを、身をもって体験してしまいましたよ」
「あぁ嫌だ」とさっきの男が呟くと、青年は苦々しく笑った。緩やかな田舎の風が、妙に冷たく感じて青年は法衣の襟元を立てた。小さな小屋と納屋の間に不釣り合いの黒塗りの馬車が止まっている。
「その野生の熊みたいな顔で、馬車に外套を置いてきたのがそもそもの間違いなのさ。身分を証明するものさえあれば、憲兵も話を信じてくれただろうに」
自分の容姿が身分と釣り合ってない自覚がある男は嘆息する。馬車の扉を開ける動作も気だるげで、悲しみを体で表現しようとしているかのようだ。
「せめて、あの場に封師でもいたら良かったんですよ」
「さすがに、この田舎にはお前と関係の深い、封師の知己はいないだろうしね」
青年が中に入ったのを確認すると、男は手綱を握って馬車を走らせた。官師と同じレグレット退治をする自由業の封師も、想師に記憶が消されることはない。但し、深い交友がある場合や縁者の死であれば同じ様に記憶が消される決まりであった。正常政策は無為自然的な思想が少しでもあれば、極めて奇妙で尚且つ恐ろしい政策なのだが、この田舎も例外ではなく大抵の民衆は自然に受け入れている。それがまた気味が悪い。
「・・・全く法皇様は何をお考えなんだか」
青年は、今はまだ何も見えない首都コルチェの方角を憂鬱に見つめた。

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