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ペントラルゴ 〜忘却の頌歌〜

第一章 奇妙な日常

二、

 

  ペントラルゴ城下にある赤い屋根の白壁が蔓に覆われた小さな家といえば、知る人ぞ知る有名な封師ピトロの住処である。

 法王の住まう城を中心に都市周壁を増築し、四重の同心円状の形状となっている都市コルチェ。そのちょうど内側から数えて三重周壁目に沿って位置する、第四地区一の十二番地が彼らの住処。

 第一地区は城を行き来する聖職者、周壁をはさんで官師や想師など国に仕えるいわゆるエリートの住まう第二地区、また壁をはさんで第三商業地区があって、もっとも外側に第四地区と呼ばれる町民の生活区が存在している。

 壁をはさんではいるが、商業区の隣に位置しているだけはあってこの辺りの住民の朝は早い。この日も商人の仕入れや開店準備にざわめく声と、町人の井戸を汲む音が聞こえてきたのはまだ明け残っているそんな時分。窓からは、月と幾億もの星の透きとおるかのような光がわずかに漏れ入ってくる。

  ピトロの家の二階の一室に、彼の弟子のヴァッツが、寝台を軋ませて勢いよく飛び起きたのもちょうどこの時間だ。
「ヤベッ、遅刻だ」
本当はいつよりも半時ほど早い起床だったのだが、それを知るにはあまりにも日頃の習慣が悪かった。寝台から急いで這い出そうとしたために、シーツに足を滑らせて顔から落ちる羽目になり、しばらく顎の痛みで悶える。
「ガッツだヴァッツ。こんな痛みなんてアシアの説教に比べれば、朝食のおかず以上に気にならないものさ」
涙目でまさに涙ぐましい気合をいれるが、窓の向こうの星たちにようやく気づいてほろりと涙が盛り上がってしまった。心なし顎の痛みが増したようである。

 

 顎を摩りながら階段を下りると、光沢のある褐色の長い髪に、いつもの墨染め色の外套を羽織ったピトロの姿が目に映った。夜明けを待つようにひっそりと窓辺に佇む背中が、まだ幼いヴァッツにもなんとはなしに哀しげに見えて、挨拶もできずに思わず立ち竦んだ。

 どれぐらいそうしていたのか、本当はほんの一瞬だったのかもしれないが、ヴァッツには時を封じられたかのように長く感じられた。その静止した空間が破られたのは床板の軋む僅かな音だった。
「あ・・・」
決まり悪げに顔を歪ませて、ヴァッツはそろりと師を見つめた。
「おはようございます、師匠」
ヴァッツがそう言うと、ピトロはいつものように穏やかに笑んだ。ただし、苦笑いも含まれている笑顔だ。
「・・・いつからそこにいたのですか?」
「えっと・・・今起きたところです」
「そうですか。珍しくこんな早くからあなたの顔を拝見できたので驚きました。・・・少し冷えますね、薪をくべましょうか」
ヴァッツの口籠った、あからさまに動揺する声音を気にすることなく、ピトロはそっと暖炉の横の均等に積み上げられた薪に手をかけた。
(いつからそこにいたんだろう?)
ヴァッツも同じ疑問を抱きながら、火打ち石を持って師と肩を並べ、暖炉に火をくべた。

  朝の簡素な朝食をすませ、擦り切れたズボンと赤茶けたベストを着込んで愛用のゴーグルを額の上にのせる。鏡に映るヴァッツは準備完了とばかりに、にやりと口角を上げた。赤金色の髪に黄土色の瞳の少年が鏡に溌剌とした笑顔で映っている。鏡を覘くと笑顔を作るのはヴァッツの習慣みたいなものだ。この日は早く起きたので、城へ向かう準備をゆっくりしても、いつもより早く家を出ることになった。
「じゃあ、行ってきます」
欠伸を噛み殺してドアノブをひねり勢いよく外に一歩踏み出すと、ふと立ち止まって振り返った。奥の部屋で書籍片手に弟子の出発を見ていたピトロは首を傾げる。
「忘れ物ですか?」
「いや・・・」
ヴァッツは口を開いてまた閉じる動作を何度か繰り返し「やっぱりいいです」と言って、くるりと背を向ける。何に対する違和感なのかさっぱり思いつかない。こういう時は大抵何かを忘れているのだが、思いだせないのだから仕方ない。そう割りきることにした。
「変な子ですね」
「はは・・・すみません」
「待ち合わせには、今日は遅れないように行ってらっしゃい」
「え?俺、城に行くのはいつも一人ですけど?」
「・・・そうでしたか?」
ピトロが震える声で問い返すが、気づかずにヴァッツは家を飛び出した。

 

  淡い陽光を受けて輝く石畳を軽快に走り抜ける。赤煉瓦の家が並ぶ通りを抜け、三周壁目の門を通り検問所の憲兵と挨拶を交わす。内緒で憲兵の誰かが飼っているらしい黒猫の眠りを妨げないようにすり足で門を潜ると、そこには朝から賑わう商業地区がヴァッツを迎えてくれる。朝市が立つ西通りを避けて幾分静かで人通りの少ない東通りを進んでいると、前方に三人の子どもが一人の老人の行く手を阻んでいた。
「おい、何やってんだよ!」
思ったとおり、赤い果実のような丸鼻の老人と、尖り目と丸目と細目の少年である。ヴァッツはほっておけずに間に割り込んだ。一見純朴そうな少年達が、目を陰険に光らせてヴァッツに視線を向けた。それは敵意と嘲りを含んだ目だ。
「ふん、脳無しヴァッツか」
尖り目の少年が、逆三角形の目をさらに鋭くして吐き捨てるように言う。黙っていれば物静かな少年に見えるのだが、今はただの平凡な悪がきにしか見えない。
「博士に何してんだよ」
「別に、歩いてたら後ろにこのバカ博士がいただけだよ」
バカ博士とは、いつもくだらない発明に身を捧げている老人を、馬鹿にして付けられたあだ名である。近所で名の知れた発明馬鹿と評判だった。
「お前たちは両手を広げて後ろ向きに歩くのかよ」
「どんな歩き方でも人の勝手だろ。それとも憲兵でも呼んでくるか?」
むろんの事だが、そんな馬鹿馬鹿しい理由で憲兵を呼べるはずもない。だからといってヴァッツはこの博士と昔から懇意にしているので大人しく引き下がるわけにもいかなかった。まだまだ子供だが、男としてのプライドがそれを許さない。ヴァッツと丸目達はしばらく白熱した睨み合いになった。
「もう、いいかげんにしたらどうじゃ。お前さんたちはあそこへいかないといかんのじゃろうに、遅れてもしらんぞ」
すると、ずっと黙っていた博士と呼ばれる黄ばんだ白シャツ短パンの老人が白大理石の城を指差した。

皆一様に城を仰ぎ見て、特に三人の子どもは呆然と見つめた後に顔色を変え、体を返して走り出した。それを今度は博士とヴァッツが呆然と見送り、顔を見交わしてプフッと噴出す。あまりに呆気ない悪ガキの退場にもう笑うしかない。
「どっちが馬鹿なんだよ」
「まぁまぁ、あんな小僧どもでも官師になることには真剣なんじゃろう。さすが城に官師見習いとして教育を受ける権利をもらった子達じゃ」
「官師は国に保障された権威のある職業だからアイツ等も必死なんだろ」
と茶目っ気のある博士の皮肉を笑いつつ、ヴァッツ自らも官師見習いとして城へ向かう者であるという自負に瞳を輝かせた。

 城に呼ばれて官師見習いの教育を受けることができる選ばれた子どもは数少ない。しかし、だからこそ、将来官師になることを保障されているといっていい。ペントラルゴは、ルイースフェル教の最高聖職者である法王が統率している完璧な政教一致国家である。つまり、国を動かしているのは聖職者といえるわけだが、官師、想師も国の重要な役割を担っている国家機関だった。
「ところで、ヴァッツは『脳無し』と、記憶のない親御さんのことでそう言われておるのか?」
博士が鼻を掻きながら何気なさを装って聞いてくる。
「家族の記憶がないから『脳無し』。全くアイツ等も、家族が死んだら記憶を消されるかもしれないのに・・・。今のアイツ等にしてみれば、俺は孤独で可哀想で、だから自分たちの方が幸せで・・・優越感を感じちゃえるらしいよ。孤独かっていったら師匠がいるし、可哀想かっていったら記憶がないから何も思わないんだけどな。博士ならわかるでしょ?」
ヴァッツの親は三年前に亡くなり想師に記憶を消された。なぜだか親のことだけでなく全ての記憶を消され、ピトロに預けられた時からの記憶しか思いだせない。それでも平穏で少し刺激的な楽しい生活を過ごしている。
「まぁワシぐらいの年齢になると、親が先に死んで家族の記憶を消された人間ばかりじゃからな」
「だよね。覚えがないことで馬鹿にされたって、まるで他人事みたいに聞こえるよ。記憶がどうした、思い出がどうしたって言ってやりたいよ」
「でもな、たまに記憶がないことに寂しくなる時があるぞ」
「でも思い出したら、その人がどうやって死んだのかも分かっちゃうんだよ?そんなの、辛いことなんじゃないかな?」
あまりに真剣な形相で言い通すヴァッツに、博士は好々爺のような笑みを浮かべて「そうかもしれんの」と頷いた。同意したというよりは、ヴァッツに理解を示したという方が正しい、そんな頷きだった。
(なんだよ。複雑な答え方して)
ヴァッツには博士の態度と返事が、子ども扱いされたものだと思って口を引き結んだ。

  

    ―――そして、突然異変は起こった。
「アチ!」
博士の一息で吹き飛んでしまいそうな白髪が、瞬く間に火を噴いたのだ。
「はっ、博士?」
ヴァッツはまた博士の妙に心臓に悪い発明かと思ったが、すぐに考えを打ち消した。なにせ博士は手ぶらであったわけだから、発明品がないのに原因であるはずがない。
「なんじゃ?またガキたちのいたずらか」
「ち、ちがうよ!レグレットだ!!」
額にのせていた愛用のゴーグルを顔に装着すると、はっきりと犬に蛇のような尻尾をつけた黒い霧のレグレットを確認することができた。しかし見かけは犬でも動きは猫のように俊敏で、猿のように木や家の屋根を飛び回る。博士は着ていたシャツで頭の火を消し困惑した顔で辺りを見渡して嘆息した。
「やれやれ、常人には見えんとはやっかいじゃな」
レグレットは亡くなった生物の魂であり、一般市民にはその姿を見ることさえできない。何か現世に心残りがあった場合現れると考えられており、強い怨み・欲望があれば人を襲う化け物にも変じる。今回現れたのは明らかに退治すべき危険なレグレットだった。ヴァッツは顎を突き出し目を最大限かっと開いて黒いレグレットの動きを追おうとするが、ゴーグルの視界の狭さに阻まれて思うようにいかない。
「なんだ?このレグレット速すぎるだろっ!」
動く事もできずにいるヴァッツは、ピトロがいないことに不安を覚えて唇を噛む。犬のようなレグレットは四つの足で滑るように走り、軒並みに連なる家々に炎を吐きつけていく。瞬く間に、まるで灼熱の太陽の下にいるような大火事が発生してしまった。誰かの甲高い悲鳴が轟く。騒ぎに気づいて窓から様子を伺い、外に出て来る人々が現れる。一瞬にして、日常が倒錯し、非日常へ周辺を変えてしまう。レグレットの見えない一般人は猛烈な勢いで炎が家に飛び移っているようにしか見えないのだろう。家に戻ってバケツに水を汲み、消火活動をしようとまさに元凶であるレグレットに近づいて行く。


「だめだ!それ以上近づいたら危ない」
ヴァッツは激しい動悸と恐怖で身を竦ませていた体を叱咤(しった)して、人々の進行を妨げようと手を広げた。
「小僧っ子。心配いらんからそこを退け、じゃないと、もっとひどいことになる」
行く手を阻まれた中年男が、苛立ちながら威圧を込めてヴァッツを見下ろす。
「違うんじゃよ。どうやらレグレットがいるみたいなんじゃ」
ヴァッツを押しのけようとした男を、今度は博士が食い止める。
「なんで小僧がレグレットを見えるんだ?・・・まさか城に呼ばれている官師見習いか!?」
そう問われて、ヴァッツは男の目を見返して力強く頷いた。
「これはただの火事なんかじゃない。ここからみんなを避難させないと危険なんだ」
レグレットを浄化したことは、実際ヴァッツにはない。だが、ピトロについて封師の手伝いをしていたことで、レグレットの危険性は熟知していた。
(レグレットは、えーと、確か人を見つけると襲う傾向が強いとか師匠が言ってたっけ)
ヴァッツはピトロが日頃注意していることを高速で回想し、腹を括る。
「博士、みんなを避難させて。俺が何とかしてみるから」
「わかった。・・・しかしなぁヴァッツ、ピトロを呼んだ方がいいんじゃないか?」
「ここから師匠を呼ぶのは時間が掛かるし、巡回中の憲兵が官師をつれてきてくれるよ」
咄嗟にそう答えていた。 

 とはいえ考えに耽る余裕もなく、レグレットは何軒かを炎に包み終えるとその場から逃げようとする群衆に気づいて瞬時に襲う体勢に入った。だが動いたのはレグレットだけではない。ヴァッツは隼のように駆け出し、獲物を捕食しようとするかのようにレグレットに突っ込んでいく。
(ガッツだ、ヴァッツ)
右手には武骨なスパナが握られ、壁をつたって移動するレグレットに横からそれを投げつけた。

封師・官師はレグレットと対峙する際、必ず光具(こうぐ)と呼ばれるモノを携帯している。これは、格別女神の血を引く高位聖職者、つまり法王の血族が有する聖創力(せいそうりき)と呼ばれる力を物に込めることで作った、実態のないレグレットに対抗する道具であった。これの基となる物は特に決まりもなく、要するになんでもいい。ヴァッツが光具に選んだのは、昔、博士から貰ったこのスパナとゴーグルだ。スパナは実態のないレグレットを弱体化させる力を。また、ゴーグルはまだ修練の積んでいない未熟なヴァッツがレグレットの姿を視認する力を秘めた光具である。 
 

そのスパナが直線上に回転を加えて空を飛び、レグレットに当たったかに見えた。

  「ニギャァァァ!!」
・・・踏みつけられた猫のような、ノイズ混じりの高音が耳に刺さる。耳を塞いだヴァッツは、地面に転がるレグレットを確認した。どうやらスパナが効いているらしい。致命傷ともいえる効果に驚きが隠せない。スパナが命中した箇所が、水蒸気のように空気に溶け、レグレットの身の丈が三割ほど縮んだ。

これはひょっとして、このまま浄化できるかも、と期待さえしてしまう。しかし、未熟者の期待は期待止まりでしかなかった。 
子犬のようになったレグレットは、逆に凶暴さを増幅させ、噛み合わせの悪そうな長い牙を生やした。横たわっていた体は、頭から糸で吊り上げたように垂直に飛び上がり着地する。弱体化したなんてとんでもない。活性化しているといってもいい。

小動物特有の小回りの利く動きで軽快にジグザグ走行し、ヴァッツ目掛けて突っ込んで来る。その姿はゴーグルのせいで視界が狭いとか云々の問題ではないほどの速さで、疾風を彷彿とさせる。
(レグレットからは、人に攻撃できるなんて不公平だ!!)
唯一の攻撃手段であるスパナを手放してしまったことが悔やまれる。
「くぅっ」
背中に衝撃を感じて顎から地面に突っ伏した。

「ヴァッツ!」と博士が呼ぶ声がしても、返事を返すことさえできない。様子を見に来た者、逃げようとする者で人が犇(ひし)めき合う中で、人々が一斉に静まり返ったのが分かる。人々の注目が、炎からヴァッツに移ったのだ。
(あぁ、こんな格好悪い姿で死にたくない)
鼻までずれたゴーグルが気になった。

擦り切れている顔も気になった。

こんな時にそんなことを考えるのが普段からかっこ良さを気にするヴァッツらしい。死んだら皆が自分の事を忘れてしまうのだと諦観しても、死に様はやっぱり気になるものなのかと自分でも呆れてしまう。そして、泣きっ面に蜂とばかりに周りの家が完全に炎に取り込まれ、耳に火の粉が落ちてくる。

気温も上がっているのか、自分の背中の上だけ特に暑いので、首を捻ってヴァッツは見た。

見てしまった。
息をすることさえ忘れてしまう。
大人ひとり分ほどの火の玉が、ヴァッツの上空で膨れ上がっていたのだ。
(焼死体なんて嫌だぁぁぁl!)
瞼を押し付けるように閉じ、悲鳴のような心の叫びを体内で木霊させながら体を丸めた。

  その瞬間、遠くの人垣がさっと割れて、黒塗りの一頭馬車が人死にが出るのではないかというほどの疾風怒濤の速さで向かってくる。
「少年、助けにきたぞ」
野太い声の主が手綱を引き、馬車を目前で止めて飛び上がった。

一瞬だった。

青い外套がはためき、ヴァッツの上空から落下する炎が真っ二つに割れて消滅した。

軽い着地音をたてて大男が地面に降り立ち、ヴァッツと目が合うとにかりと笑う。

剃り残した黒髭が顔に野性的な印象を与えるが、笑うと目尻がきゅっと細まり愛嬌を感じさせる。片手に握られている刀剣が纏いつく炎を吸い込み、鋭い輝きを放った。妙に寒気がするほど冴えた剣である。

ヴァッツは炎を断つ剣など見たことがなかったので、恐怖さえ忘れて大男を見入ってしまった。

大男に気を取られていると、黒塗りの馬車が乱暴に開かれ中から人が現れた。こちらも目に付く異彩の青年で、悠々とヴァッツに近付いてきて繊細そうな手を差し伸べた。差し伸べられたヴァッツは、少し迷った後、握り返して立ち上る。その際、ずれたゴーグルを直すのを忘れない。乱れた髪も、もちろん直す。
「あ、あの・・・」
「もう心配ないからね」
清涼感のある声で青年は微笑んだ。

細められた目は、鳩の血を固めた紅玉みたいだった。透き通る白光の肌に薄い唇。鼻梁の整った秀麗な顔立ち。束ねられた白銀の髪が白雪のように肩にかかっている。男性であるのに神々しい絶対的な美を象った姿だ。こんな状況でもなければ、ヴァッツも自分の理想の最終形として見惚れていたかもしれない。しかし、そんな相手に返した言葉は、あくまで現実的な言葉だった。
「あの、その・・・心配ないって、あれがかなり心配なんですけど」
顔を引きつらせながら指差した先からは、また炎の玉が高速でむかってきていた。
「あぁ、あれね」
青年は無造作に片腕を上げ、自分の大きさほどある炎を鷲掴みで握り潰した。
「はぇ・・・そんなのあり?」
「だから、心配ないって言ったでしょ」
青年は場違いなほどゆったりと微笑んで、今度は両手を突き出した。前方からは、一直線にレグレットがこちらに向かって突進して来ている。

細い指先に触れるかというところで、レグレットはつま先から銀の炎に包まれて・・・消滅してしまった。

あの耳障りな悲鳴もなく、まるで霧が晴れるかのように自然に浄化されてしまったらしい。


 「すごい・・・・・・・どうなってるの?ペントラルゴの司教様と聖騎士様・・・だよね?」
「この年でなりきり趣味は変態だぞ。少年」
「それだけでなく、間違いなく良識を問われて、ばれたら捕まるね」 
「じゃあ、首にあるルスフェルの刺青も真っ白な法衣も、青い外套も本物なんだ?」
半分の疑惑と残りの好奇心をくるくる入れ替え問いかける子供に、二人の大人は肯定の頷きを返した。

ペントラルゴの聖職者は、ルイースフェル女神の象徴である赤い花(ルスフェル)の刺青で身分がわかるようになっている。司教は茎と花弁三枚でそれとわかる。純白の法衣は、ペントラルゴの聖職者の規定服だ。対して青い外套は、ペントラルゴの上級守護職聖騎士の装いである。司教と聖騎士ほどになると滅多に会うことのない身分の人間なので、ヴァッツが疑ったのも無理はなかった。
「おそらく本物じゃよ」
「博士?」
いつの間にかヴァッツの背後に、渋い顔の博士が立っていた。
「間違っていたら申し訳ありませんが、もしやあなた方はヒース=ロウ=ペイテェス様とルルド=マクレガー殿ではありませんか?」
ちりちりになった髪と汗で汚れながらも、しかつめらしくして博士は問いかけた。いつもと違う改まった博士の態度にヴァッツは首を傾げる。
「そうですよ」
「やはり。北方のエイリア国に布教活動に行ってらっしゃったそうですが、お帰りになられたのですな」
「えぇ、入国したのは昨日ですよ。それにしてもよくご存知ですね?」
ちりちり髪の薄汚れた博士に対しても、ヒースは礼儀正しい。
「エイリアでもお二方がご活躍だったと手紙で教えてくれる者がいるのです」
「ははぁ、なるほど・・・」
「なぁ、博士。この司教様たちって実はすっげぇ人達なわけ?」
話についていけず置いてきぼりをくらったヴァッツは、好奇心に負けて大人しく聞き役に回れなかった。

あまりに明け透けな物言いに大人三人は苦笑を禁じ得ない。
「ヴァッツ、こちらのヒース様は現法王様のご子息で、ルルド殿は聖騎士三番隊長をしてらっしゃるんじゃよ」
「ヒース様はともかく、私が有名になったというなら司教の護衛という立場故というものですよ。次期法王候補という特殊な立場でいらっしゃいますからね。というわけで、今のうちにヒース様にゴマを擦っておいたらどうだな?少年?」
どうやらヴァッツは、気に入られたらしい。ルルドは渋みのある顔が一変し、愛嬌たっぷりに冗談を言った。それに対し、 「うん。それもいいかもね。なんたって俺、将来官師になるつもりだからそういう伝手(つて)があっても悪くない」
と、大人ぶった態度で冗談めかして小さな少年が言うものだから、ルルドはもとよりヒースも声を上げて笑い、場は一気に和んだ。
 

  だがそれは一瞬のこと。

火に左右囲まれた状況と、官師を連れてきた憲兵の姿によって、すぐに掻き消えた。官師と思しき緑青色の長衣が「レグレットはいません。消火活動を行ってください」と、叫び現れたからだ。遠巻きに様子を見守っていた人々は、その鶴の一声により、一斉に各々動き始めた。さすがは商業地区の人間というだけあり、行動は素早く無駄が無い。各自、人名救助をする者と消火活動をする者に分かれ、使用人や家人に各々の主人が支持を飛ばしているのが目に付いた。
「ルルド」
「はいはい。分かってますとも」
意味深なやり取りで、二人の間では話が通じたらしい。それを見ていたヴァッツは、「なんだろう?」と、視線をやるが博士は首を横に振る。
「もしかして君は、光具を持ってることからして、今から城に行く見習い君じゃあないか?」
「そうだけど、それが何?」
ヒースが「そうか」とだけ答えて、乗ってきた馬車に乗り込んだ。それに続いてルルドが「ついて来い」とヴァッツの首根っこを捕まえ馬車に押し込み、自身は馬の手綱を引いた。
「じゃあな、爺さん。気をつけて帰れよ」
「あぁ。城に行きなさるんじゃな?その方がいいじゃろう」
それを聞いて、ヒースは座席に身を沈ませて、唇を吊り上げて笑った。
「えっ?は、博士!?」
「城まで送ってもらいなさい。ヴァッツ」
博士はそう言って手を振り、馬が嘶いて動き始めた。

車輪が回れば回るほど、だんだん火に照らされた町並みと博士が小さくなっていく。それでも火事現場からは子供がいないと騒ぐ母親の声や、炎から逃げ惑う人の声がヴァッツの耳から離れることはなかった。

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