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ペントラルゴ 〜忘却の頌歌〜

第二章 選択と結果

一、

この日は濃霧が出ていた。視界が白く、隣を歩く黒染めの外套は色あせて見える。長身の相手の顔立ちが辛うじて分かる程度で、若草色の瞳が道標のようにちらちら光っては霞む。

師弟二人が歩む、第一地区の北側に位置する街路は静まり返っていた。もともとこの外人居留区に居を構える人物といえば他国の貴族階級・羽振りのいい商人たちで構成されている。信心深い彼らは、年に数回訪れるか否かの巡礼のためにわざわざこの国に別荘を構えているのだ。彼らにとってペントラルゴの一等地ともいえる第一地区の敷地を得るということは、世界の有力者にとっては大きなステータスになった。ペントラルゴ側からしてみれば、外国人に敷地を与えすぎるわけにもいかず、外人居留区として有力聖職者の居住区と線引きされた場所が、第一地区のこの北端である。

「まだ依頼人の家に着かないんですか?」

別荘地というだけあって人がいない屋敷も多く、概ね使用人が数人詰めている程度が普通。もう昼前だというのに人通りもない。肌寒さ視界の悪さ静寂と、少年の小さな体をさらに縮める要素はたくさんある。異国情緒ある瓦葺の屋根や、土壁の巨大な円楼、白黒青などの総大理石による宮殿、高層階の半円型のカマリア窓のはまった屋敷など、その異色の建物が今はぼやけて化け屋敷のようにヴァッツには見える。

「この辺りのはずなのですがね」

折り目正しく折った紙に目を通しながら、ピトロは右へ左へと首を動かした。

「あぁ、ありました。あの館がそうですよ」

二人が道を右に折れてすぐに、砂色タイル張りの三階はある館が現われた。長方形の館を一定の距離をあけて鉄塀が囲っている。近くに寄るとその鉄塀の高さは二階ほどの高さがあり、来る者を威圧する。

「今回の依頼人って・・・どんな人なんですか?」

飾り気のない門があり、厳格な雰囲気が醸し出されている。思わずヴァッツは腰が引けたが、ピトロの視線を受けて姿勢を正す。

「この館のご主人は、南方からいらした方らしいですよ。なんでも奥様がご病気らしく、ここ数日状態が悪化して私に依頼なさったのです」

死の直後に人の魂が体から抜け出てレグレットが生まれる。そのため封師は依頼され、事前に亡くなる可能性のある人間の所に出かけて行く。そしてその死後を見守り、レグレットが生まれるようなら浄化する。突発的に生まれたレグレットを浄化する官師とは、ここが違う点である。

「その奥さん、レグレットになるぐらいの心残りがあったの?」

もちろんレグレットにならない死人もいるわけで、依頼されて行ったはいいが弔問して終わる事がざらにあった。そうではあるが、生前に苦労や未練があるとレグレットになる確率がぐっと上がるので、ヴァッツはそれを危惧しているのだ。

「故国からご夫婦で亡命して来たのだと伺っています。私達では到底想像もできない苦しいことがあったのではないでしょうか。ご主人がかなり心配してらっしゃるみたいですし、レグレットになる確率は高いかもしれませんね・・・」

門を潜って庭に足を踏み入れた。晴れた日なら美しい庭園も、霧の中では白く霞んで寒々しい。ピトロは館の扉を叩く前に、ちいさな肩に手をやった。

「今回、この館のご夫婦はペントラルゴで市民権を得られました。この意味が分かりますか?」

「奥さんが亡くなったら、想師が来て記憶を消しに来るってことでしょう。それぐらい知ってます」

「もしも想師が記憶を消すようなことになったら、ご主人を刺激する行動はしないで下さいね」

「・・・わかりました」

そう答えながら、ヴァッツは内心、先日に会ったヒース司教を思い出して胸がズクズク痛んだ。外人居留区に行くとピトロから聞いた時には安心していたのに、また気分がどこまでも沈んでいくような心持ちになる。本来、入国手形を所持している外国人は記憶を消されることはない。外人居留区に住むような人間ならなおさらだ。しかし、市民権を得ると話が変わってくる。というのも、市民権を得るということはペントラルゴの国民になることであり、その管理下に置かれるといえるからである。つまり、正常政策が適用されることを意味していた。

それに、まだ官師見習いであるヴァッツは記憶を消され続けている。今回奥さんが亡くなれば、ヴァッツからも奥さんの記憶が想師により消されてしまう。

「なるほど、抹殺されるわけだ」と、維持の悪い司教の声が聞こえてきそうだ。

「お城での官師見習いの指導は順調のようですね」

「えっ?」

無意識に耳を塞いでいたヴァッツは、聞き返す。ピトロを凝視すると、やけにうれしそうな、それでいて照れるような顔つきだ。

「やっぱり、アシアの教え方がいいんですかね。ヴァッツが法に少し詳しくなってるなんて、以前なら考えられない進歩です」

それを聞いて師のにやけ顔の意味を瞬時に悟った。

「どうせ、師匠の貸してくれた法律書なんて一回も読みませんでしたよ。それに、アシアは実技の指導教官であって、法学を教えてくれるのはフラクル官師です」

そう言うと、「なんだ、そうですか」と非常に残念そうにピトロが吐息を漏らした。ピトロがヴァッツを引き取る以前から、二人は恋人同士である。特にピトロはアシアをとても愛しており、アシアの話となると人が変わったように顔を緩める。それを見ては、(恋の病は恐ろしい)と子供心に学んだ。

 

 ピトロが館の扉を叩くと、使用人らしき白い肌の若い男が主人の待つ部屋へ案内した。出迎えるように立ち上がった痩せぎすの男は、浅黒い肌に黄色や赤色の珍しい色調を基本にした衣服を着込んでいた。霜を戴き始めた頭と、充血して濁った眼球は、長年の苦労を垣間見せる風貌である。背筋を伸ばし、しっかりした足取りで歩み寄ってきた主人は、ピトロの手を取って歓迎の意を表わした。

「ようこそいらした、封師ピトロ。わしの名はクムジェン・アディ。この館の主人です」

「こちらこそよろしくお願いします」

少し訛りがある。

ピトロは手を握り返した後、絹を敷いた床に腰を落とした。隣にヴァッツが座すと、主人も向かい合う形で足を組んで座った。それから、ピトロと主人は言葉を何度か交わし、病気で臥せっているという依頼人の妻の部屋に案内されることになった―――。

 

 

  中に入ると大きな天蓋付きの寝台が目に付いた。部屋の中央に配置しているそれには、白い女が金髪を散らして横たわっている。半円型のステンドグラスから入る僅かな光。寝台とネフリート製の花瓶。簡素な部屋は、寂寞(せきばく)として妙に幻想的であった。

「妻のサレーヌです。ここ数日意識がありません。医者のいう話では息を引き取るのは時間の問題だそうです」

女はまだ若く、明らかに館の主人とは異種族だった。おそらく北の出身だろうと肌の色から推測できる。ヴァッツも師に続いて女の顔を覗き観たが、息を呑んでピトロの外套に顔を埋めた。

女は美しかった。透き通る頬に薄い唇。細い首筋に骨ばった鎖骨。だが、その美しさは、生きた人間の美しさではない。この部屋のように夢幻で、置物のように動かない人形のようだった。ヴァッツは、物を見るように人間を見た。生気のないその姿は同じ存在だと認識できない。

ピトロは隠れるように縋(すが)り付いているヴァッツに、慣れた手つきで背中を軽く叩いてやった。

「綺麗な方ですね」

何人も病人や死体を見てきたはずのピトロだが、溜め息交じりに言った。

主人は他意のないピトロの褒め言葉に顎を引く。

「えぇ、私が某諸国で調度を買占めに足を運んだときに見初めまして、口説き落とすのに苦労したものです」

言葉の最後は鉄面皮が少し崩れて緩んだ。

「良い思い出ですね」

「えぇ・・・。思えばあの時が一番、私達にとって幸せな時期でした」

主人は愛しむように、屈みこんで女の額にかかった髪を払おうとする。

「私は奥様がどんな方か知りませんが、こうやって見守ってくれる人がいるのは幸せなことだと思いますよ」

「・・・そうだといいのですが」

そして、伸ばそうとした手は・・・女に触れられることなく下ろされた。

ガチャリとドアの取手が傾いた。

びっくりして振り向いたヴァッツは、入ってきたのが先程の使用人の若者と分かり、息を吐く。そうすると気分も落ち着いてきて、やっと自分が師に縋り付いていることに気づいて恥ずかしくなった。

(何びくついてんだろ、俺。かっこわりぃ)

できるだけ周囲の人間に気づかれないように、そっと黒染めの外套から指を離す。

「旦那様。想師がいらっしゃいました」

途端にヴァッツの体が強張る。

「わかった、すぐに行く。お前はピトロ封師を部屋に案内してさしあげろ。・・・それでは、失礼します」

使用人の男に目配せして、主人は部屋から出て行った。

「な、なんか忙しそうだね」

さっさと部屋を退室した主人が扉を閉めると、ヴァッツは動揺を誤魔化すように言った。

「仕方ありませんよ。想師の話を聴いておくのに越したことはありませんし、いろいろ都合があるのでしょう」

「すみません。どうかお気を悪くしないでください」

男は控えめに謝罪するのに対し、「お気遣いなく」とピトロは如才無く返した。

 

 男は固い姿勢を緩めることなく、ピトロとヴァッツを与えられた部屋に案内した。

大きな部屋だった。唐草模様の調度が壁際に置かれ、鮮明な色調の絹が天井に掛けられている。

「では、こちらでお休みください。お暇でしたら主人が書斎を開放しておりますのでご自由に使って構わないとのことです」

「あっ、俺行きたい」

昼間から部屋でじっとしているなんてヴァッツには想像もできない。本を眺めるのも苦痛ではあったが、まだ部屋にいるより良い。

「では、ご案内 致しましょう」

「ヴァッツ、くれぐれも粗相のない、良い子にしているのですよ」

「わかってます!」

子供扱いされて頬を膨らませつつ、ヴァッツは男の背を追いかけた。

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