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ペントラルゴ 〜忘却の頌歌〜

第三章 必然的な不運

七、

 

  ヴァッツはすぐに第五地区に足を運んだ。

第五地区といっても実際は第四地区の一地域にすぎない。ここに住む住民はルイースフェル教とは別の信者や外国からの移民、またはわけありの者で構成されており、コルチェのどこよりも荒んだ土地柄であることは間違いない。そして、博士の研究所があるのもこの区域だ。

博士の家はピトロの家の近所にあるのだが、博士の発明品によって幾度も迷惑を被った住民の怒りに触れ、研究所だけ苦情がこない第五地区への移転が余儀なくされたため、ヴァッツはこうして治安が悪い場所に足を運ぶ羽目になっている。

 ヴァッツがこの場所に一人で来るのは初めてである。何でもないように見せて実は緊張していた。

壁が剥がれて古くなった高層の建物が、日の光を遮り断層のようになっていて陰気くさい。通りすぎる人間全てが悪党のように見えてくる。おまけにひどい頭痛で、足元がよろめいた。

(これで今日何度目だろう、想師の頌歌が歌われるのは・・・。時間を空けずに何度も歌うのは止めてほしいところだけど、それだけ今日はよく人が亡くなっているのかな)

声は聞こえないが、トスティンが歌ったときのような忘却の歌がヴァッツを悩ませる。ペントラルゴで何人命を落としているか体で知ることができるのだが、この中で攫われた三人の歌もあるかもしれないと思うと気が急かされる。

朦朧としながらも、ヴァッツは早く師を助けなければという使命感から前進を続けていると、何かにぶつかって尻餅をついた。見上げると、脂下がった顔つきの男達がヴァッツを見下ろしている。

「おい坊主、こんな所で何しているんだ。見かけねぇ顔だな」

リーダーらしき髭面の男が仲間に視線で某かの合図を目で送りながら、ゆっくりとヴァッツとの距離を詰めている。この男にぶつかったヴァッツは、男達に囲まれつつあることに気付きながらも、動けない。

(ヤバイ・・・!いつもなら余裕でこんな奴らから逃げられるのに、今日は体が動かない)

頭が重く、視界がぶれて男達が歪んで見える。地面が揺れているようで上下もする。

「おいおい、この坊主腰が抜けちまったみたいだぜ」

男の一人がそう言うと、下卑た笑い声が建物に反響して木霊する。

第五地区で素行の悪い連中に絡まれることはそれほど珍しいことではない。一人で来たのは初めてだが、大人といてもそれは日常茶飯事であり、今更こんな男達に恐怖するヴァッツではない。しかし、相手は勘違いしたらしく、屈辱に耐えるしかなかった。

「その幼気(いたいけ)な子供に何の用だよ。いい大人が何人も」

「ほぉ、口だけは達者な坊主だな」

髭面が苦笑する。

(こいつら、いつも弱そうな奴から金巻き上げている連中だな・・・)

いつだったか、博士が髭の男に金を取られたと嘆いていたことがあったことを思い出した。おそらく、この連中がそうなのだろう。しかし、ヴァッツは今日急いで家を飛び出して来たので手持ちがない。この事が知れたらどうなるか・・・・。

ヴァッツは焦燥感に拳を握った。

「んっ?なんだお前は」

髭面の男が目を眇めてヴァッツの後ろに視線を向けた。振り返ろうとしたヴァッツは、首筋に重い衝撃を受けて意識が遠のいていく。

意識を失う瞬間、白いローブが視界の端で揺れたような気がした。

 

(俺の人生この頃ついてなさすぎる。怪我するし、憑かれるし、薬飲まされるし、襲われるし、閉じ込められるし・・・うるさいし)

一度想師の頌歌を拒絶したことで、集中しなくても記憶を消されることは無くなった。おかげで記憶を失うことへの罪悪感は消えたが、その拒絶反応ともいえる反動が凄まじく、頭痛と虚脱感に悩まされている。そして、あろうことか第五地区で体が動かなくなるという大失態。抵抗する前に誰かに襲われて、なぜか監獄の中である。

「君、大丈夫?どこか打ったのかい」

同じ牢の薄汚れた法衣の神父は自分ごとのようにおろおろしている。長い間囚われていたらしく、髭も生えて不潔な見目だが、それでも爽やかさを失わない不思議な青年神父である。

どうして、第五地区で倒れて起きたらこんな監獄にいるのかということはもちろん気になったが、何よりひどい頭痛でそれどころではない。窓もない鉄格子の嵌められた狭い牢屋には、この神父以外は何もなかった・・・・。

「助けて・・・」

「えっなんて?」

神父はヴァッツの口元に耳を寄せる。

「助けて、みんなを」

頭痛でうんざりしていたヴァッツは、初めて万民の健康と平和を祈った。

「素晴らしい!」

それをいいように解釈したこの神父は目に涙を光らせ、ヴァッツの手を強く握るものだから堪ったものではない。

「こんな状態で、少年が皆のために祈るとは!おぉ女神よ!」

「もう嫌・・・助けて」

目が覚めてずっとこの調子なのだ。頭痛だけではなく、冴えない善良すぎる神父と二人きりで、精神的拷問にかけられているようだ。

「俺は想師の頌歌で頭が割れそうなんだから静かにして。頼むよ、神父さん」

心からの懇願に、人の良い神父はやっとヴァッツの心の声を聞き取ってくれたらしい。

「あなたは官師なのですか?」

やっとまともに話しができると、ヴァッツはほっとする。何より不必要に甲高い声が和らいだだけでも、精神的負担が軽くなった。

「見習いだけどね」

そう答えると、わざわざ神父も同じ体勢になるように這い蹲って視線を合わせ、問いかけてくる。

「なるほど、君はやはり法王様に縁のある聖職者様の息子なのだね!」

「はぁ!?」

ところが、さらに頭が痛くなった。

(もう、勘弁して。本当に)

「なんで法王様と血が繋がってるんだよ。もしかして、からかってる?」

「まさかまさか。でも、封師・官師でもなく想師の頌歌を拒絶できるのは、生まれもって聖創力のある始祖ラルゴの血縁だけだよ。聖創力がある人間はおのずと教会内で優遇されるから、高位聖職者の息子さんじゃないかと思ったんだけど、やっぱり違うの?」

神父はフケを飛ばしながら頭を掻いて、「おかしいなぁ、封師も官師も正式に認定された時に聖創力の恩恵が与えられるから、拒絶できているのに」と呟く。

そして、ヴァッツは前に、「高位聖職者にでもなれただろうに」と言ったトスティンの言葉を思い出した。

(俺の両親は誰なんだ?なんで俺、師匠の所にいるんだろ?)

昔、記憶が全くない不安に押しつぶされそうになり、親についてピトロに聞いたがうまく誤魔化された。だから、両親はよっぽどひどい人だったのだと納得して聞かないようにしていた。詳しく聞いておけばよかったと、まさに後悔先に立たずというやつである。

「そうそう、頭痛は、慣れてくると痛くないようになるから安心するといいよ」

「それ・・・本当なの?」

「うん、本当。これでも一様、ルイースフェル教の聖職者だからね。女神の力と考えられる聖創力については詳しいんだよ」

「ふーん」

(あんまり信用できないけど)

と心の中で言葉を継ぎ足す。もうすでに、ヴァッツ中で、この神父が「爽やか頓珍漢」と印象付けされている。おまけにヒース司教という法王の息子は、始祖ラルゴの血を引く直系のはずなのに不真面目な教徒だった。そのことからも、聖職者を簡単に敬えなくなっている。

「それで、その勤勉な神父さんが、こんな所に閉じ込められているのはなんで?」

浮遊感のある笑顔は固まり、ふるふる震えだした神父は滂沱の涙を突然流し始めた。

(今度は泣き出すんだね)

 諦め始めたヴァッツは、たった一人のために祈った。

(この人を何とかして下さい!)

 

 落ちついたのはいつ頃だろう。窓もないので、外の様子も分からなければ、時間も判らない。隣では相変わらず、頓珍漢神父がしくしく泣いている。しかし、頭が割れるかと思うほど痛かった頭痛が微かに痛む程度に回復しているため、ありえないくらい長い間、大の大人が泣いていたのは確かだった。

「すみません。私は一度泣き出すと止まらなくなる体質でして」

「いいよ、諦めたから。それで、どうしてここにいるの?俺、まだ誰に捕まったのかもわからないんだよね」

「あぁ、そういえば説明してないね。あのね、おそらく君は売られるんだよ」

目は充血していながらも爽やかさを失わない笑顔が、とんでもないことをさらりと教えてくれる。

「えぇ!売られるって、まさか人身売買?」

「子供限定のね」

「ボーゼス?」

ヴァッツはあの冊子に書いてあった悪人の名をすぐに思い浮かべることができた。

「なんだ、知ってるんだね。そのボーゼス大司教の領有地で私は子供が売られているのを知ってね。調べてみたら領主であるボーゼスが黒幕だとわかって、数十日前に運悪くその張本人に捕まってしまったってわけだよ。そろそろ記憶でも消されるんじゃないかなぁ」

笑えないことを爽やかに言う神父を、ヴァッツは心から哀れに思った。だが、それなら第五地区で自分を襲った相手は、ボーゼスの仲間ということになる。

「だとしたら俺・・・売られる前に殺されるよ。きっと」

ヴァッツは博士に相談しようと、あの冊子を持ち歩いていた。当然荷物も没収されているらしく、手元にそれがない。果たして、悪事を証明する調査書を持っていた子供を悪党はどうするんだろう。しかも、トスティンが欲しがっていた冊子に名前が出てくるボーゼスの仲間がヴァッツを襲ったなら、ピトロらを攫った奴らもボーゼスであるということになる・・・。

そこまで考えて自分が絶望的な立場にいるのだと悟った。そして、運命とは皮肉なもので、タイミングを計ったように足音が近づいてくる。

「聖職者って普通、無殺生だよね」

「言いたいことはわかるけど、一般人でも人身売買は禁止されてるよ。殺生なら尚更」

神父は決まりが悪そうに、申し訳なさそうに言った。足音は牢の前で止まる。白いフードを目深に被った、丸目を襲った人間が冷気を纏って立っていた。

「そこの子供。牢から出ろ」

意外にも女の声だったので驚く。動こうとしないヴァッツに、開けられたドアから無理やり引きずり出された。

「その子に何をする気なんだ?」

「お前の知ることではない」

神父は声を上ずらせながらも問うてくれるが、返ってきたのは心臓の凍るような声音でしかなかった。ヴァッツも掴まれた手を解こうとするが、びくともしない。再び閉められた牢に神父だけを残して、ヴァッツは白フードに連れられて無理やり歩かされた。

「この子達をどうするんだよ?」

牢に入っている間はわからなかったが、ヴァッツ達が入っていた牢の隣にも同じような牢が続いていた。中には怯えた子供が、一つの牢に何人かに分けて投獄されている。ヴァッツは想像を絶するひどい状況に目を逸らす。

「お前は知っているはずだ、そうだろ?」

上から見下ろすその目は悪魔のような冷酷さを備えていた。ヴァッツはその視線を浴びるだけで冷汗三斗する。

「前に目をつけた官師見習いの子供と一緒にいたから、探して連れてきてみれば・・・・なぜあの冊子をお前が持っている?」

「知らない」

クムジェン達に害が及ぶことを危惧して咄嗟に嘘をつく。すると、繊手が強烈な張り手を放ち、その衝撃でヴァッツは鉄格子に背中から当たって崩れ落ちた。

「正直に言え」

「知らないって・・・言ってるだろ」

ぐったりしているヴァッツを冷眼視し、引っ立てた白フードはヴァッツを合金製の扉の中へ押し込む。

「見てみろ。あの子供達のように、地獄を味わいたいのか?」

幾つもの寝台に乗せられた子供達・・・いや成人間近と思しい人間が大半だが、チューブのようなもので血液を抜き取られている。また、棺桶の蓋に針が無数についた器具さえ置かれていた。

「まったく、法衣が白色と誰が決めたのやら。汚れが目立って気にくわん」

どこからかそんな話し声が漏れてくる。場にそぐわない陽気な声だ。

「今度は法衣を黒にするように聖会議で進言してみてはいかがです」

大勢いるようだった。部屋の中央に階段があり、一階下と繋がっている。ヴァッツは走り寄って手すりから下を除くと、白い法衣を着た数人がぞろぞろと部屋を出て行くところだった。

「それはいいな」

中でも中心的な人物と思わしき猫背の法衣が談笑してから姿を消した。

「あれがボーゼス?」

想像以上に悪人面だ。見目が悪いし体格も気持ち悪い。何よりこれほどひどい犠牲と悪行を行ったのが、こんな純白の法衣の似合わない三流悪役みたいな人間かと思うと気分が悪くなった。

いや、気持ち悪くなったのは、ボーゼスのせいばかりではない。部屋に入ってから、喉に詰まるような濃い血の臭いで息が止まりそうだった。それから、血溜りの床や動かぬ子供、管の通った人間など最高に殺伐とした光景は、まだ子供のヴァッツが耐えられるものではない。

足が震えて立っている感覚もなく、踏み止まっていられたのは意地としかいいようがなかった。

「どうした?冊子のことを話す気にでもなったか」

白フードは意地の悪い笑みでわざわざ問うてくる。それに反発するようにヴァッツは相手を一番恐い顔で睨みつけた。

「師匠達をどうしたんだ?知っているだろ?」

「師匠?・・・あの長髪の男か。安心しろ。子供はどうだったか忘れたが、大人二人は生きている」

「・・・本当かよ」

ゆっくり近づいてくる白フードから逃れようと後退りするも、足がふらついていたヴァッツは死体の腕に躓いて尻餅をつく。追いつかれて女の顔を仰ぐことになった。

「どこで見つけた?」

白い手が伸びてきて、咄嗟に転がって避ける。ヴァッツは白フードの女に掴まれたら最期だと確信していた。華奢な女だが、その力は大の男よりも強い。怪力とかそんなものではなく、それが聖創力のためだとヴァッツは看破していた。

(見た目に依らず強引な行動は、力に頼りすぎている証拠だ。そこを上手く衝いたらなんとかできるかもしれない)

ヴァッツは動悸を押さえて集中した。ここで何も考えず逃げようとしても、簡単に白フードに捕まることは明らかだった。これまで何とかなってきた。逆行に強い自分を信じるしかない。決意は固まった。

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