太陽が影に食われる現象を見て「おかしいものだ」と感慨に耽った。 うろ覚えではあるが、子供の頃に太陽の半分が食われた時は町中すごい騒ぎになったことを覚えている。そのせいで、凶荒が起こる印だとか、伝染病が流行って人間が死ぬとか、とにかく悪いことが起こる兆候だと信じ込んだものだ。 それから十数年後、今度は太陽が丸ごと食われてしまった。しかし、隣で空を見上げる白い外套に身を包んだ丸鼻の中年男は、古い記憶には見当たらない表情でそれを仰いでいる。 視界は暗くなったが、その顔だけははっきり視認できた。 「楽しい?それとも感動してんの?」 相手が笑みを浮かべたので、思わず問いかける。すると、丸鼻は白い外套に似つかわしい邪気のない笑顔で頷いた。 「このような奇跡の瞬間に立ち会えて、感動しています」 草原の小高い丘の上。俺とそのルイースフェルの聖職者、あとは幾人かの同僚だけがそこにいた。 木々もほとんどない地で、周りを見渡すと俺達以外の存在は確認できない。しかし、不思議なことに、災厄の兆候とも言われているこの現象の最中、神秘的な雰囲気が辺りを支配していた。 「美しかったですね」 吐き出されて出てきた太陽は、しばらくすると元通り大地を照らし、輝きを放った。やはり、丸鼻の聖職者は、実に満足そうである。 「ただ暗いだけだろ?」 「影がある。だからこそ存在を確認できるのです。暗いからこそ、光を感じられるのです」 「意味がわからない」 素っ気無い一言に、丸鼻はすっかり黙り込んだ。 「俺の国ではあれは凶兆だと云われてきた。それなのに綺麗だとは思えない」 どこにでもいる顔面 脂ののった男だが、俺とは正反対に、この聖職者は清々しい横顔で大地を見下ろしている。 なぜ、そんな顔ができるのか・・・・。さっぱりわからない。 俺―――トスティン=ティンバーは成人してから城の一般兵として入隊し、自慢の身体能力のおかげで、いつのまにか兵士として昇進した。そして、気づけば城に訪れた客人である、このペントラルゴから来た聖職者を送り届けるため、護衛の任を任されることになった。 けして裕福とは言えない大陸の、小国の部類に入る国で生まれ育った俺は、初めて外国の地を見渡している。 「時に先入観は真実を隠し、そして人の可能性を閉じてしまいます。この現象でいえば、美しいものからただ目を背けているだけなのです」 「確かに、何年か前に太陽が食われた時には変事は起こらなかった・・・・。しかし、日が照らなければ全ての作物は死に絶え、そして人も生きていられなくなる」 「そう、だからこの現象を皆が良くない前兆だと疑った。つまらない先入観です」 空を見上げていた同僚達が、徳の高そうな聖職者の話に聞き耳を立てていることに気づいた。まだ旅路の途中、しかも村や町も見当たらない丘で、皆が足を止めてただ人の話に耳を貸している。これは普段では有り得ないことだ。潔斎とは無縁の血生臭い軍の規律のもとで生活している人間達が、俗悪な女の話以外で熱心に話しを聴くことなど天地が逆様になっても起こらないと思っていた。 「日が翳るからこそ、日の光の重要さがわかるのです。そして、美しさを知ることができるのです。真実の付随しない形を見ていては、自分の魂を汚すことにも繋がります。先入観に捕らわれてはいけません」 脂で顔が光っているその人物は、紛れもなく聖職者だった。体に馴染むように説教が心にも馴染む。 同時にこんな人間がたくさんいるというペントラルゴに興味を抱くことになった。 人の数だけ思想があり、信仰で統制しようとも、ずるずる雑草のように違った思想が根をはる。聖地の人間達はどれほど信仰に忠実であり、対照的に雑草のような思想を持った人間はどうしているのだろう。 ――そのように考えると、救いの国とまで人々に言わしめるペントラルゴは、非常に歪な国ではないかと思えた。 そして・・・・気付けば、この丸鼻の聖職者を無事にペントラルゴに送り届けると、俺自身もその地に残ることを決意していた。
それからのことを思い出すと、眩暈がする。妻に選んだ女は意思の強い強固な信仰を背負った人間だった。もとから神を信じない人間だったため、その思想は自分に馴染むことはなかったが、彼女の人間性を愛した。 しかし彼女―――リディアンの父親は、娘とは対照的な悪い思想をもった雑草だった。 ボーゼスだ。 本来善い心をもってその力を行使しなければならないはずが、邪悪な心を持ちながら女神の恩恵を受けているボーゼスは、さらに恩恵を欲しがり悪事に手を染めた。金と悪事で聖創力を得ようと子供を売りさばき、その資金で聖創力を増幅させる実験を行っていたのだ。そして、妻がそれを知って黙っているはずがなく、父親に罪を償わせようとして挙句殺されてしまった。
妻を殺したのはボーゼスと共謀していた足元に転がるこの白い女である。自身もこの女に一度心臓を止められた。 しかし、今は女が心臓を止めようとしている。奥歯に自害用の毒を隠していたらしく、体が痙攣し、白かった肌も徐々に土の色が混ざってきた。 女に乗せていた足を退けて、鋭く光る針をしまう。 ちょうどその時、扉を煩く叩く音と一緒に「トスティンいるんだろ?」と妻の声に似た子供の甲高い声が部屋に響いた・・・・。
手が痛くなって、ヴァッツは諦めた。部屋に人の気配があったと思ったのだが、いきなり気配が消えてわからなくなった。 「アイツ、大丈夫かな」 たまに萎縮するほど恐くなるのだが、ヴァッツは嫌いになれなかった。もちろん腹がたつ性格だし、掴みどころのない大人だったが、様子が少し変だったので心配になってきた。とはいえ押しても引いても叩いても叫んでも開かない扉では、これ以上粘ってもどうすることもできない。前に進むだけと、諦めるしかなかった。
トスティンに言われたとおり、左に反れると、扉の開かれた牢がずらりと並んでいた。中は蛻(もぬけ)の殻。ただ、体臭や饐(す)えた臭いがして、さっきまで人がいたことは明確だ。 ・・・・しかし、微かに誰かの声が聞こえる。 歩調を速くして足を進めると、緑青の塊が壁に寄りかかっているのを認めた。子供にしては大きいその見場は、官師の長衣に包まれたアシアだと一拍おいてからヴァッツは気づく。足元には泣き叫びながら頭を抱える幼児がいて、その脇には丸目が不自然な体勢で横たわっていた。担いで運んでいたのがずり落ちたのだろう。 「ヴァッツ?」 顔を上げたアシアは「なぜ?」と言いたげに乾いた唇を動かした。衰弱ぶりはただ事ではなく、内側から何かがアシアの生命力を削っているようだった。 「どうしてここにいるかって聞きたいの?」 アシアは頷くだけで返事をすませた。しゃべるのが辛いのだろう。前から風邪に掛かっているらしく、最近顔色が悪く、城に顔を出さない時さえあった。しかし、数日でこんなに症状が悪くなるのは明らかにおかしい。 「・・・・具合悪いみたいだね」 見ればわかる当然の言葉しか言えず、ヴァッツは戸惑う。 「ヴァッツ、私のことはいいからその子を支えてあげて」 汚れて垢だらけにあっている幼児は、ずっと泣くのを止めようとせず、しきりに自分の頭を叩いている。ヴァッツはその子供を見て、まるで未踏の地に足を踏み入れた子供のようだと思った。 一人で悲しみと戦っている。 「その子、一緒に連れてこられたお兄ちゃんが、目の前で死んでしまったの。こんな時、私が想師だったらと・・・」 そこでアシアが胸を押さえて言葉を切った。ヴァッツはどうしていいのかわからず、幼児の手を掴んで抱きしめた。 「アシア、もしかして・・・何かされた?」 さきほどの研究室でのことが脳に焼きついているだけに、官師であるアシアの血が抜き取られたのではないかと危惧したのだ。 「私は病の血だから大丈夫」 「どういうこと?」 「トスティンからだいたいのことを聴いたわ。もうすぐ死ぬ病気持ちの血なんか、彼らは必要としていないということよ」 ただでも暗くて重い牢獄で、掠れがちに話すアシアの声は死者の声に聞こえた。しかし、当の本人は小さく笑っている。 「冗談・・・なの?」 「本当よ・・・自分でも信じられないほどの衰弱ぶりが可笑しかっただけ」 「何笑っているんだよ。とても信じられない、病気だったなんて」 ヴァッツは腹が立って仕方がなかった。アシアにではなく、自分を取り巻く人々の不幸と理由のわからない不安に。 アシアはそんなヴァッツを見守っていたが、途中で目が翳んできたのか、瞼が重たげに閉じてしまった。 「アシア?」 異変に気づいたヴァッツはアシアの体を揺さぶるが、瞼が動くだけで目は開きそうにない。 「アシアってば!」 叫び声は壁に反響して何重にも重なる。長い睫毛がぴくっと震えた。全身の力が抜けるように固まった筋肉が緩む。ヴァッツはひどい虚脱感に襲われた。安全だった国で、平穏だった自分の世界がほんの数日で奇妙に歪んでしまった。いや、きっと最初から歪んでいたのだろう。自分が気づかなかっただけで・・・。 理由も知れぬ悲しさに、ヴァッツも未踏の地に足を踏み入れようとしていた。腕の中の子どもがずっと泣き叫んでいる。 暗い淵に沈む意識の中、丸まった背に暖かい温もりを感じてヴァッツは振り返った。透けて見えるあの栗色の髪の少女が、気遣わしげにヴァッツの背を摩(さす)っている。その温もりにもっと触れたくて、少女の手に手を重ねようとするが、透り抜けて空を彷徨う。 「ありがとう」 放心しながら何とか礼を言うと、少女はにこりと笑った。 「・・・私は大丈夫。自分で作ったポモドーロを食べたぐらいの辛さしかないから」 苦しそうにしながらも、アシアはくだらない冗談を言ってヴァッツを安心させようとする。掠れて声というより息みたいだったが、やけに鮮明に聞き取れた。淋しくて悲しいのだが、ヴァッツは笑顔になった。アシアの作ったポモドーロは最強に不味い。ピトロを含めた三人でそれを食べた時は、三人とも翌日の朝まで気持ち悪さが抜けなかった。その時の辛さを思い出すと、おかしな話だが今では本当に幸せな気持ちにさせられる。 「師匠は?一緒に捕まってたんじゃないの?」 ヴァッツはアシアのために、ピトロをここに連れてこなければと思った。そんな、使命感みたいなものが湧いてきたのだ。 「オニ?」 ヴァッツはアシアのもそりと動く唇に耳を傾け聞き返した。 「『行った・・・記憶のために』?」 その後「どういうこと?」と、問おうとしたが、声は爆風とともにかき消されていた。 |