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ペントラルゴ 〜忘却の頌歌〜

第四章 理不尽な真実

四、

 

 過去は人の心を暖めもするが、砕きもする。

幾ら忘れたところで、それは必ず後ろに付いて周り、思い出したかのように回りこんで目の前を塞ぐのである。

歴史的に有名なペントラルゴの某司教が、過去は影に似ていると言ったそうだ。ずっと傍を離れずついてくる所が似ているからだと・・・・。

しかし、それは違う。

影は闇に入ると消えるが、過去は闇に迷い込むと存在を主張し始めるからだ。

努力を忘れず正しく生きてきた人間にとって、時として過去は道を照らす道標となる。

しかし、何も成さなかった人間にとって、過去は己の内部で肥大化することで前方を塞ぎ、外部からは責めさいなむ要因を運んでくるのだ。

そして、ヴァッツ少年もまた、幼いながらも、過去に試されるときがやってきた・・・。

 

少女に導かれるまま牢獄を走り抜け、何階か上った先で、光具とともに冊子を見つけた。ヴァッツは想像以上に順調に事を成し、あんなに触ることさえ恐かったそれを大事に抱えて、来た道を戻った。

 しばらく、牢獄内部を駆け回っていると、だんだんここがどういう場所なのかということがわかってくるものである。檻があるわけだから、明らかに牢獄なのは間違いないのだが、上層階の看守の部屋などを見る限り、寝台や机の上に厚い埃が乗っていたため、どうやら昔使われていた牢獄であることが見て知れる。

つまり、老朽化して使われなくなった牢獄だといえるわけであるが、仮にも大司教という称号を持つ者が牢獄を自ら建てるとは思えないので、基からあった建物を勝手に使用しているようだということは想像に難くない。

錆びれた鉄扉は立て付けが悪く、苦戦しながら開閉して通り抜ける。見下ろすと、すぐのところに無機質の階段があり、冊子を奪還したヴァッツは、息を弾ませて入り口に向かうべく階段を下りていった。

 

―――そして、ふと、踊り場で足を止める。

「不気味なくらい静かだ・・・・」

博士の警告通り、残党が残っているのではないかと思っていたが、人の気配が全くなかった。白フードの女だけが、広い牢獄に詰めていたとは考え難い。他にも数人の悪人が居たと考える方が自然だったが、それらしき影は見当たらない。

(子供達が逃げたので、用なしとばかりにどこかへ行ったのだろうか・・・・)

ヴァッツが少しばかり逡巡していると、突然少女の力で背を押され、階段に突き落とされた。体が宙に浮き、咄嗟に壁を蹴って空中で体勢を整えると、次の踊り場に何とか足から着地することに成功した。

驚いて少女を見上げると、さっきヴァッツがいた場所には鉄矢が数本生えていた。

嫌な予感がして目を眇めると、上空から黒い棒状の影がヴァッツに飛んできている。それを弓だと察したヴァッツは、数歩横に避けてやり過ごすが、読んだようにそこへ人間が降ってきて、拳を叩きこんできた。

少し横に飛んで急所は避けたものの、ヴァッツは階段を転げ落ちる。

止まった頃には、打ち身が激しく、ヴァッツは唇に歯を立てた。

石壁には「一階」という文字が刻まれている。どうやら、入り口のある一階に到着したらしいが、全く喜べない状態だった。

早くから監視されていたらしい。今まで気配がなかったことから、ずっと襲撃する期を計って、隠れていたのだろう。

顔を黒い仮面で覆った暗部は鞭でヴァッツの足を封じた後、相手は無造作に黒い袖から刃物を抜いて振り下ろしてきた。しかし、レグレットである少女が力を使ったのか、一瞬心臓に振り下ろされた刃物は途中で静止し、暗部はもがこうと身動きができなくなった。

そこへ、思わぬ助っ人が現れ、暗部の頭に容赦なく殴りつけ、暗部が白目を剥いて崩れるという脅威の状態を作り出したのだ。

「やぁ!」

場違いに陽気な声が降ってくる。見上げると鍵束を両手で抱えたあの青年神父だった。

正義感の強い神父は、子供達がちゃんと逃げた後も心配になって見回っていたらしい。そして、ヴァッツの苦境に気づき、助けるために鉄でできた牢獄の鍵束で悪者を殴ったというわけだ。

しかし、まさかあの貧弱そうな神父に助けられるなんて・・・と、ヴァッツは内心驚嘆していたわけであるが、それはもちろん口にしない。

神父はヴァッツの無事な様子に安堵して、無駄に爽やかに、はにかんだ。

「いやぁ、よかった。危機一髪だったね」

「うん、ありがとう。神父さん」

「おや、頭痛いの直ったの?」

神父は右手を出して、ヴァッツを助け起こす。ヴァッツは神父の質問に肯定しようとした矢先、視線の先にある人物に目が釘付けになった。

一筋向こうの廊下から、上半身だけ出た状態で子供が倒れている。

まるで、逃げようとした矢先、後ろから襲われて殺されたようだ。うつ伏せに、顔だけこちらを向いている。

遠目からでもわかる、確かにその子は今ヴァッツの傍らに立つレグレットの少女そのものだった。

「あの子・・・・」

ヴァッツはふらふらと、覚束ない足取りで、少女に近づいた。心臓がバクバク音を立て、ヴァッツを責め始める。

いったい自分の体に何が起こっているのか判別つかない。

でも、ヴァッツはとにかく、それが現実だと思いたくなかった。

(ただの、レグレットのはずだ。何も知らない。ただ自分についてくるレグレット)

栗色の少女の髪は黒ずんでガサガサにほつれ、死後何日かの死体は腕が外れ腐乱している。ただ、ヴァッツを見つめるように開かれたままの瞳はガラス玉のように不思議と透徹していて綺麗だった。

その瞳に吸い込まれるような錯覚に身を任し、じっと少女と視線を絡めると、ぐるぐる脳が回転して押し込めていた記憶がびっくり箱のように中から飛び出した。

・・・・それはまるで、嵐。

轟音のように過去の人々が自分の名を呼び、目の前を過去の映像が強風のように通り過ぎていく。

「そんな・・・・どうして、こんな・・・ずっと、ずっと――― 

・・・・・・・・一緒にいたのに・・・!」

少女はヴァッツにとって親友と呼べる存在であり、城での官師見習いの教育を一緒に受けていたことも、良き相談相手であったことも全部思い出した。

そして、トスティンが何者で、昔何があったのかも・・・。

恥ずかしいことにようやく、彼女が自分を心配していたから傍にいたことに気付く。少年は、その感情が羞恥なのか、恐怖なのか、罪悪感なのか、絶望なのか、それとも全部なのか判断がつかなかった。

嗚咽だけがひくひく口から漏れる。

涙なんて出ない。

喉が震え、痙攣したように上下した。

「いけない!落ち着いて、ゆっくり息を吸って、そして吐くんだ」

尋常じゃないヴァッツの様子に心配した神父が、駆け寄って少年の背を撫でた。友人を忘れていた少年は、心痛でまともに息も吸えない状態の中、しきりに「ごめん、ごめん」と繰り返す。

・ ・・どうして、友人の危険に気づけなかったのか。

・ ・・どうして、友人がいなくなったことに気付けなかったのか。

・ ・・どうして、知らぬふりができたのか・・・・。

・ ・・・どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、

・ ・・・彼女は死んでしまったのか。

少女が遺体と同じ大きな目で、心配そうにヴァッツを見つめ、その肩にそっと手を置く。少女はもちろん、ヴァッツを責めてはいない。

しかし、ヴァッツは謝罪を止められなかった。

瞳孔は開き、口を苦しそうに開くヴァッツは、空を探す魚か、砂漠で水を欲しがる半死半生の人間そのものだった。

「助けて、助けて・・・」と言うように、目も口も忙しなく震えながら開いている。

「大丈夫・・・大丈夫だよ」

意外なことに、ヴァッツを絶望から救った人間は、頼りない雰囲気の神父だった。事情がわからなくとも必死に慰める神父は、ヴァッツを抱きかかえて、背を摩った。

何度も何度も、ゆっくり背を叩く。

ヴァッツはそのリズムに任せるように、鼓動が緩やかになっていくのを感じた。羽音のような雑音と頭痛も成りを潜めていく。

「落ち着いた?」

ヴァッツはゆっくり首肯する。鼻が赤くなったまま、少女の顔を恐る恐る覗きこんだ。

少女は穏やかな顔で頷き、真横に腕を伸ばし、いずこかへ指を差した。博士から譲り受けた人物お尋ね時計も、同じ方向を向いている。

 

このまま思い出すこともなく、無残に殺され死んだことも知らずにいたらと思うと、ヴァッツは罪悪感で押しつぶされる。ずっと、長い間大切な友達だったのだ。『記憶がないから困ったことなんてない』なんて口が裂けても言えない。

大切な記憶がたくさんヴァッツの中に存在していたことにも気付かされた。

過去は、優しいだけでも、哀しいだけでもなかった。だけど、前に進めとヴァッツの背を押す。

「行かなきゃ」

ヴァッツは神父に改めて礼を述べると、外に飛び出した。

 

 

 

 鉄扉を開くと、琥珀の光を目端で捉えた。トスティンが腕を組んでニヤッとする。

「よぉ、遅かったな」

衣服も息も乱したピトロは、うんざりしてトスティンを睨みつけた。

「あなたは見ているだけで加勢する気もなかったみたいですが、えぇ、そりゃもう〜突破するのに骨が折れましたよ」

「ご苦労様。やっぱりさすがだな、ピトロ」

「死ぬかと思いました」

ピトロの疲労困憊な様子は、確かに身に降り掛かった過酷さを体現している。

ヒース達がボーゼスに歓待されて半時は経過した頃、トスティンがボーゼスの別邸に到着し、続いてしばらくしてピトロも姿を現した。トスティンより先行していたはずのピトロであるが、その実、ボーゼスの居場所を特定するのに骨が折れた。

しかし、ピトロは短時間で居場所をどこからか入手し、尚且つレグレットの大群の中を潜り抜けて来たのだから、初めからヒースからボーゼスの居場所を聞いていたトスティンにしていれば、感心に値する能力である。

「でも五体満足でよかったじゃねぇか。な?」

「この状況でよくそんなことが言えますね」

トスティンは大袈裟に肩を竦めてみせる。

「いや・・・まともみたいで安心したって言いたかったんだよ。ヴァッツなんか、お前を心配して俺に追いかけてくれってお願いしたんだぜ」

今度はピトロが肩を竦めた。

「それは心配かけましたねぇ。いや、それよりアシアを置いてきた私にヴァッツは失望したのかもしれません」

と言って言葉を切る。トスティンは溜息を吐いた。

「・・・・・」

「それより、ついに念願の日がきたみたいですね」

埒も無いことを零したためか、あからさまに話しを逸らしたピトロの若草色の一対の瞳が翳った。

「私はずっと不思議だったんです。どうして当時、ヒース司教がエイリアに行く前に、あなたはリディアンさんを生き返らせて貰わなかったのかと・・・。それこそ、諦めるのが大嫌いなあなたのことですから、何か考えがあったはずです」

「考えねぇ・・・そんな余裕はあの時なかったよ」

「・・・じゃあ今ならあるんですよね。今からボーゼス殿はヴァッツを生き返らせるつもりだと聴きましたよ。ボーゼス殿はあなた方が生きているのを未だ知らないともね。何を企んでいるのですか?」

ピトロには明らかに殺気だった相手の熱が伝わってきた。

「止めるつもりじゃあ、ないんだろ?」

「もちろんです。むしろ、便乗して自分の願いを叶えようと思っています。なんとしても正常政策をなくしたいので、ボーゼス殿の心配などしていません」

緩んだ緊張は笑いを誘い、静かににやっと笑い合った。

「それにしても、よくそこまで情報を掴んだもんだな」

「少しばかり聖職者にきつく質問しただけです」

「なるほど。いざ喧嘩するとお前が強かったのを思い出した」

トスティンは背筋が寒くなったが、顔には出さなかった。肩を叩いて、奥に進むように促がす。

「ピトロ、いい事教えてやるよ。念願の日っていうのは、何も俺だけではないんだぜ」

「それはいったいどういう意味です?」

「これ以上は言えない」

二人の足音が驚くほど高く響いた。トスティンは邸に潜む敵の数を肌で感じながらも知らぬ振りをして一定の歩調で歩く。

「ヴァッツ、来るかな?」

「来るでしょうね。あなたとそういうところがそっくりな子ですから」

トスティンがその後口を開こうとした瞬間に、邸全体が激しく揺れ出した。二人は立っていることもできず、しばらく身を伏せていると、頭上を猛スピードでレグレットが通り過ぎていった。

悲鳴か呻き声かそれとも喜びの声か、とにかく判別できない声が轟音となり、冷気が嵐のごとく吹き荒む。

「このレグレットは、邸の表にいた?」

「ヒース司教の力で結界が解けたらしいな。今から自分達の心残り、嫌・・・憎悪の対象に向かって雪崩れ込むのさ。後を追うぞ」

がなりたてるように声を出しても、二人には見向きもせずレグレットが通過していく。二人は迅速に動き、地下へ下っていった。

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