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ペントラルゴ 〜忘却の頌歌〜

第二章 選択と結果

六、

 

 「終わったぞ」

トスティンは放った力が国中に広がっただろうと判断し、口を閉じた。けして脳が破裂しそうなほど音痴というわけではなく重厚な美声だったのだが、ヴァッツはあまりの頭の痛さにしばらく蹲(うずくま)って動けなかった。

一方クムジェンと男は意識を失い、床に昏倒している。

「頭が痛いってことは力に抵抗できた証拠だ。近距離だったのにすげぇじゃねぇか」

「ぜんぜん良くない。なぁ、超痛かったんだけど、頭皮破けてないよな?」

「あぁ大丈夫、大丈夫。・・・・て、もうそんなに怒るなよ。覚えてるんだろ?」

ヴァッツが子供らしくない非難めいた顔をして、自分を見上げているので、トスティンはため息をつく。

「そうじゃなくて・・・・何でわざわざ記憶を消すつもりだったのに、あんなこと言ったかってことだよ」

ヴァッツはどうしようもないくらいムカムカしていた。

数日前の男は、サレーヌに関する記憶を消されることも覚悟しているようだった。でも、自分でそう納得しようとしていただけだったのだと今は思う。そうやって、必死に自分の気持ちにけじめをつけようとしていたのに、わざわざその決心を揺らがせ、絶望させてから記憶を抹消するのは卑劣なことだと思った。

「納得できないのなら抗えばいい。なのに、あの男はそれをしなかった。人の記憶がどれほど重要なものか知らずにな。記憶がなければ死んだ人間は始めからいないも同じ、存在しなくなるっていうのに・・・・むかつくぜ」

琥珀の目が翳って褐色にかわった。斜に構えて吐き捨てた物言いにヴァッツは困惑する。

「・・・・私はいったい、なぜこんなところで寝ているのですか?」

衣擦れする音がしたかと思えば、想師の力によって妻の存在を忘れたこの館の主人は、頭を抱えて起き上がろうとしていた。それをピトロが体を支えて助けてやる。

「私共のことはお分かりになりますか?」

「ピトロ封師とお弟子の方に、トスティン想師でしょう?・・・あそこの寝台に眠っているのは、じゃあ・・・」

「はい。あなたの奥さんだった方です」

「そうですか。こら、ラッセル起きなさい」

まるで他人のことのように納得した主人は、使用人に歩みよって助け起こしてやる。

「それで、奥さんの葬儀なんだが、個人で行わないのなら、国で近日中に亡くなった人の集団葬儀を行うからそれに出してもいい。どっちにする?」

「国でやっていただけるならそうしてくれると助かります。何分、亡命したところで経済的に苦しいものですから」

後半は、明らかに言い訳じみたものだったが、トスティンは「わかった」とそっけなく答えて部屋を出て行った。覚えのない妻の葬儀代を出す気などないのだろう。

「旦那様・・・?」

「起きたか。どうやら私の妻が亡くなったらしい」

意識の戻った男が主人に支えられながら上体を起こした。視線は寝台に注がれ、神妙に頷いた。

「ラッセルと私で、これからのことは考えるとしよう。忙しくなるぞ」

「はい、旦那様」

主人は満足そうに頷いて、使用人の男も力強く頷いた。

ヴァッツはその二人の様子を見ていられなくて、ピトロに「先に家に帰る」と言い置いて部屋を飛び出した。

 

 ステンドグラスの赤い花の絵柄が、眠りについたサレーヌの上に、朝日を受けて描かれた。悲愴な光景であるはずが、誰も何の感慨も持たない。

 部屋を片付けるからと丁寧に退室を促されたピトロは、廊下で密やかに佇む人影に気づいて足を向けた。

「ヴァッツを追いかけたと思っていましたが・・・」

平坦な声音だったが、旧友に対する思いやりのような暖かい響きが混ざっていた。トスティンは疲れたように、壁に体を凭せ掛けて顔を背けた。

「お前はなんで一緒にいてやらないんだ?随分へこんでたのによ」

「依頼人が記憶を無くした後の事後説明は、黙約みたいなものです。それに、ヴァッツは心配ありませんよ。私の育て方がいいですから」

「なるほど、さすがだ」

ふざげた調子が戻ってきたらしく、トスティンは手を叩いてピトロを煽てた。ピトロも満更ではないらしく大様な態度で頷いた。

「当然です。それに、今はヴァッツよりもあなたが心配です。相変わらず自己中心的で、天邪鬼でいらっしゃる。はぁー、本当に、久しぶりに会ったというのに心配させる性格ですよね。おまけに今は想師もしてらっしゃるようですし」

「ふん。ひねくった話し方は健在なんだな。おぞましい」

周辺の温度が急低下したが、すぐに平常温度に戻った。表情は両者とも緩い。

「天邪鬼なあなたのことです。おぞましいとは逆の意味なのだと解釈しておきましょう」

「理解力が足りないんじゃないか」

片目の右側の顔は笑っていて、左は怒っているような滑稽な顔に見えたのが可笑しかったらしく、ピトロは声を殺して笑った。

「・・・・ところで、ヴァッツに憑いてたあのかわいい女の子、誰だ?」

「気になりますか?城の官師見習いだった子で、ヴァッツの一番の友達だった子ですよ。毎日城まで一緒に行っていたのに、ヴァッツがある日を境にその子のことを忘れていました。原因はわかりませんが、亡くなったのでしょう」

「当の本人は憑かれていることさえ、ずっと気づいてなかったな」

「まぁ、ヴァッツですから」

「育て方の問題じゃないのか?」

「まさか。問題はあなたに似たことでしょう」

三年ぶりの再会だった。トスティンが今も苦渋の生活を送っているのだろうと察しがついたため、ピトロは陽気な仮面を被った相手に合わせて明るく対応する。

「・・・・俺似?」

二人の視線が交錯し、トスティンが照れたように俯いた。

「このまま、ヴァッツに教えないつもりですか?あの悲惨な出来事も知らないままに・・・」

「やっと、アイツを追い詰められそうなんだ。だからこの馬鹿な政策をなんとかできるかもしれない。それに、言えるわけがない」

やはり暗くなりがちな内容を、ピトロはことさら明るく皮肉った。

「暗部にとって情報漏らすことは、もちろんあってはならないのでしょうね。あっ想師もやってるんでしたっけ。大変ですねぇ」

ペントラルゴの暗部といえば、諜報活動から暗殺までなんでもする権力者に仕える集団である。もちろん一般人が関知しない、国家の闇の一つといわれている。おまけに今は表の顔として大嫌いなはずの想師にもなっている。

天邪鬼だからか、とにかく不器用な生き方しかできない友人を思い、ピトロは心が痛んだ。

しかし、次の友人の言葉に、そんな余裕は吹き飛ばされる。

「大変さ、でも俺は後悔してないぜ。おかげでいろんな情報が入ってくるからな。それでな、今お前が悩んでることも知っている。だから敢えて聴きたい。お前はこれからどうするつもりだ?」

ピトロの体が僅かに揺れた。それを見逃さなかったトスティンの表情が曇る。

もうどちらが心配しているのかわからない。ピトロに、いつもの倦怠感が襲ってきた。

「じゃあ、俺行くわ。正直、お前の答えを聞くのがちょっと怖いしな」

「すみません」

と小さな声が聞こえて、トスティンはぎゅっと目頭を押さえていた。

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